書評
『調律の帝国』(新潮社)
『死の家』で作家になるには
見沢知廉の『調律の帝国』(新潮社)のあとがきでちらりと触れられているドストエフスキーの『死の家の記録』を読んだのは、確か中学三年の時で、たぶんその年頃に読んだせいなのかもしれないが、ドストエフスキーの「極限的体験」というやつがひどくうらやましかった。ドストエフスキーの厳寒の世界と死刑からの生還、ランボーの砂と太陽しかない世界への逃亡、ミラーの性の極北への放浪、吉本隆明のぎりぎりまで追い詰められた三角関係……あっ、書いていてなんだか恥ずかしくなってきちゃった。
そう、とにかく、わたしたちプチブルの子弟は、そこを通りすぎれば、わたしたちを鍛えなおし、創造への道を切り拓いてくれるはずの「極限の世界」を心待ちにしていたのであり、その中でもとりわけ、お調子者であったわたしは、「極限志向」(?)が強く、危ない、こわい、わからない場面に出くわしそうになると「よし、とりあえず、そこに行こう」と掛け声をかけて突っ込んで行ったのだった。「破滅するぞ」とか「お前、死ぬぞ」といわれ、実際、わたしの周りは累々たる死屍、行方不明者続出、精神に異常を来す者数知れず。けれども、ある日、わたしは気づいた。
わたし自身はぜんぜんなんともないのである。死ぬ気配も、狂う気配も、なんにもない。
経験が身につかない? からなのかもしれない。
もしかしたらただ鈍いだけなのかも。その可能性も大。
あることがあって、人を刺して(これは死ななかったけど)きたばかりのやつに、庖丁を、喉元に突きつけられたことがある。で、やつは「殺すぞ」といった。わたしはなんだか他人事みたいに「やれば」といって、黙っていた。こわいというより、ただめんどうくさかった。しばらくして、やつは「やーめた」といって庖丁を下げた。
その少し前、K……警察署の留置場にいた時、少し離れた房に、人を殺してきた人が入った。何日かたって、仲のいい看守が「タカハシ君、あいつの房にいてくんないか」といってきた。「どうして」と訊ねると「自殺しそうなんだよ」。で、わたしはその人の房に入った。
人を殺した人の特徴をご存じであろうか。一種独得の暗さがつきまとって離れないのである。
ほとんど会話もなく、ただポツリポツリと毒にも薬にもならぬ話をして、黙っていた。しばらくして、
「何を見てるんです」とその人がいった。
「いやあ」とわたしはいった。
「やっぱり、暗くなるよなあと思って」
その人は、ほんの少しクスリと笑った。ずいぶんたって、その人は監獄で亡くなったと聞いた。
わたしが書いた小説でひとつだけ活字にしなかったものがある。
わたしが味わった「極限体験」の一切を、渾身の力をこめて書いた長編小説である。丸一年、ほとんど不眠不休で書き続け、我が生の証とまで思っていたが、書き終えて読み返し、啞然とした。
つ、つまらない……。
「極限体験」を作品にし、他人に届けるために必要なのは愚直さ・知性・ユーモアの三つである。それはモダニズムの最良の資質に等しい。その時わたしにはそのどれかが、あるいはどれも欠けていた。
だから、わたしには『調律の帝国』が書けなかったのである。
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