書評

『調律の帝国』(新潮社)

  • 2020/08/20
調律の帝国 / 見沢 知廉
調律の帝国
  • 著者:見沢 知廉
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(190ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:4101473242
  • ISBN-13:978-4101473246
内容紹介:
神社爆破と警官殺害で独居専門棟に収監された過激派政治犯Sは、その処遇をめぐり「担当」と呼ばれる看守部長と常に対立。苦情を申し入れても却下され、リンチ同然の暴力を受けるなど絶対服従を強いられた。小説を書くことで生きる望みを見出すSはやがて、看守も所詮、刑務所という閉鎖社会でしか生きられぬ「囚人」に過ぎないと考える。凄まじい獄中描写が大反響を呼んだ問題作。

『死の家』で作家になるには

見沢知廉の『調律の帝国』(新潮社)のあとがきでちらりと触れられているドストエフスキーの『死の家の記録』を読んだのは、確か中学三年の時で、たぶんその年頃に読んだせいなのかもしれないが、ドストエフスキーの「極限的体験」というやつがひどくうらやましかった。

ドストエフスキーの厳寒の世界と死刑からの生還、ランボーの砂と太陽しかない世界への逃亡、ミラーの性の極北への放浪、吉本隆明のぎりぎりまで追い詰められた三角関係……あっ、書いていてなんだか恥ずかしくなってきちゃった。

そう、とにかく、わたしたちプチブルの子弟は、そこを通りすぎれば、わたしたちを鍛えなおし、創造への道を切り拓いてくれるはずの「極限の世界」を心待ちにしていたのであり、その中でもとりわけ、お調子者であったわたしは、「極限志向」(?)が強く、危ない、こわい、わからない場面に出くわしそうになると「よし、とりあえず、そこに行こう」と掛け声をかけて突っ込んで行ったのだった。「破滅するぞ」とか「お前、死ぬぞ」といわれ、実際、わたしの周りは累々たる死屍、行方不明者続出、精神に異常を来す者数知れず。けれども、ある日、わたしは気づいた。

わたし自身はぜんぜんなんともないのである。死ぬ気配も、狂う気配も、なんにもない。

経験が身につかない? からなのかもしれない。

もしかしたらただ鈍いだけなのかも。その可能性も大。

あることがあって、人を刺して(これは死ななかったけど)きたばかりのやつに、庖丁を、喉元に突きつけられたことがある。で、やつは「殺すぞ」といった。わたしはなんだか他人事みたいに「やれば」といって、黙っていた。こわいというより、ただめんどうくさかった。しばらくして、やつは「やーめた」といって庖丁を下げた。

その少し前、K……警察署の留置場にいた時、少し離れた房に、人を殺してきた人が入った。何日かたって、仲のいい看守が「タカハシ君、あいつの房にいてくんないか」といってきた。「どうして」と訊ねると「自殺しそうなんだよ」。で、わたしはその人の房に入った。

人を殺した人の特徴をご存じであろうか。一種独得の暗さがつきまとって離れないのである。

ほとんど会話もなく、ただポツリポツリと毒にも薬にもならぬ話をして、黙っていた。しばらくして、

「何を見てるんです」とその人がいった。

「いやあ」とわたしはいった。

「やっぱり、暗くなるよなあと思って」

その人は、ほんの少しクスリと笑った。ずいぶんたって、その人は監獄で亡くなったと聞いた。

わたしが書いた小説でひとつだけ活字にしなかったものがある。

わたしが味わった「極限体験」の一切を、渾身の力をこめて書いた長編小説である。丸一年、ほとんど不眠不休で書き続け、我が生の証とまで思っていたが、書き終えて読み返し、啞然とした。

つ、つまらない……。

「極限体験」を作品にし、他人に届けるために必要なのは愚直さ・知性・ユーモアの三つである。それはモダニズムの最良の資質に等しい。その時わたしにはそのどれかが、あるいはどれも欠けていた。

だから、わたしには『調律の帝国』が書けなかったのである。

【この書評が収録されている書籍】
退屈な読書 / 高橋 源一郎
退屈な読書
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:1999-03-00
  • ISBN-13:978-4022573759
内容紹介:
死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

調律の帝国 / 見沢 知廉
調律の帝国
  • 著者:見沢 知廉
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(190ページ)
  • 発売日:2001-08-00
  • ISBN-10:4101473242
  • ISBN-13:978-4101473246
内容紹介:
神社爆破と警官殺害で独居専門棟に収監された過激派政治犯Sは、その処遇をめぐり「担当」と呼ばれる看守部長と常に対立。苦情を申し入れても却下され、リンチ同然の暴力を受けるなど絶対服従を強いられた。小説を書くことで生きる望みを見出すSはやがて、看守も所詮、刑務所という閉鎖社会でしか生きられぬ「囚人」に過ぎないと考える。凄まじい獄中描写が大反響を呼んだ問題作。

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1996年9月6日~1998年4月24日

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