内容紹介

『伝奇集』(岩波書店)

  • 2020/04/24
伝奇集 / J.L. ボルヘス
伝奇集
  • 著者:J.L. ボルヘス
  • 翻訳:鼓 直
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(282ページ)
  • 発売日:1993-11-16
  • ISBN-10:4003279212
  • ISBN-13:978-4003279212
内容紹介:
夢と現実のあわいに浮び上がる「迷宮」としての世界を描いて現代文学の最先端に位置するボルヘス(一八九九―一九八六).われわれ人間の生とは,他者の夢見ている幻に過ぎないのではないかと疑う「円環の廃墟」,宇宙の隠喩である図書館の物語「バベルの図書館」など,東西古今の神話や哲学を題材として精緻に織りなされた魅惑の短篇集.

インテリを気取って読む

必読書
20世紀後半の人文科学に多大な影響を与えたフランスの哲学者ミシェル・フーコーが、主著『言葉と物』の序文で、ボルヘスからインスピレーションを受けたと告白したからなのか、他にも多くの作家たちが賛辞を惜しまないからなのか、ホルヘ・ルイス・ボルヘスというと、いまではすっかりインテリたちの必読書の観を呈している。大学でも、スペイン語関係に限らず、なにやら難しげな理論を語るのにボルヘスが引き合いに出されることは多い。仮にも大学を出たインテリならばボルヘスくらいは読まなきゃね、といった勢いだ。いや、あるいは、ボルヘスを語ることが知性を保証する護符のようなものとなっていると言うべきか? 私たちもたまには知識人を気取ってみようじゃないか。

多様にして濃密
いくつかの雑誌に発表した短編を集めた『伝奇集』は、ボルヘスのボルヘスらしさが詰まった一冊。インテリたちが驚くような博覧強記の人だから、ボルヘスは多面的な作家だけれども、その多面性が十分に堪能できる。探偵小説風のもの(「死とコンパス」)から可能世界を描いたSF風のもの(「トレーン、ウクバル、オルビス・テルティウス」)、荒くれ者の決闘を扱ったもの(「南部」)など、多彩だ。長編を忌避して短編のみを書いたボルヘスだけれども、短いテクストの中にこれら多様なジャンルの要点を凝縮して精緻な世界を創造している。短編小説cuento, relatoは長編小説novelaとは別物で、ほんとうはこのコラムのタイトル“El placer de la novela”に反するのだけれども、日本語では同じ「小説」だし、何しろ濃密な世界を形成しているのだから、ここで読んでもいいだろう。

奇妙な世界
しかし、この「濃密」な短編世界とかいうやつ、どうにも奇妙だ。なにしろ「『ドン・キホーテ』の著者ピエール・メナール」なんてタイトルのものがあるからだ。ボルヘスを手にとるようなインテリ気取りなら誰もが知っているとおり、『ドン・キホーテ』の著者はミゲル・デ・セルバンテスのはずなのに。これはどうしたことだ?

戸惑う読者を尻目に物語は始まる。「この小説家が残した“目に見える”作品は容易に、しかも簡単に列挙できる」との書き出しで、ピエール・メナールなる人物の著作目録が展開される。ここに実在する有名な雑誌の名前などが書いてあるからといって、その雑誌のバックナンバーをめくっても、メナールの文章などは見つからないだろう。噂では、ほんとうに雑誌をひもといてみた研究者もいるとか。でもボルヘスが紹介したメナールなる人物の文章は載っていなかったとのこと。学者たちの努力には頭が下がるばかりだが、ボルヘスはこのようにまことしやかに嘘をつく。

おおいなる冗談
さて、メナールにはこれら「目に見える」作品群のほかに「隠れた、限りなく英雄的な、比較を絶した作品」もあるそうで、それが『ドン・キホーテ』だというのだ。彼の創作意図は次のようなものだ。

No quería componer otro Quijote ―― lo cual es fácil ―― sino el Quijote. Inútil agregar que no encaró nunca una transcripción mecánica del original; no se proponía copiarlo. Su admirable ambición era producir unas páginas que coincidieran ―― palabra por palabra y línea por línea ―― con las de Miguel de Cervantes.
Jorge Luis Borges, Ficciones, Madrid:Alianza, 1995, p.47より引用

彼はもうひとりのドン・キホーテを造形――これは容易である――しようとしたのでなく、『ドン・キホーテ』そのものを書こうとした。いうまでもないが、彼は原本の機械的な転写を意図したのではなかった。それを引き写そうとは思わなかった。彼の素晴らしい野心は、ミゲル・デ・セルバンテスのそれと――単語と単語が、行と行が――一致するようなページを産みだすことだった。
【J・L・ボルヘス『伝奇集』鼓直訳、岩波文庫、1993、p.58-59 ただし、訳文を一部改変した。】

この目的のためにフランス人メナールは17世紀のスペイン語を習得し、『ドン・キホーテ』以後の歴史を忘れ、セルバンテスのとまったく同じ『ドン・キホーテ』を自らの筆で書いた。20世紀の作家メナールの書いた『ドン・キホーテ』は、17世紀の軍人あがりのセルバンテスが書いた『ドン・キホーテ』に比してどれだけすぐれた書物か……と2つのまったく同じ『ドン・キホーテ』を比較対照して評価するというのが、この短編の内容。

それにしても、語り手本人も言っているとおり、実に「ナンセンス」な冗談を思いつくものだ。私たちはこうした「ナンセンス」を前にゲラゲラと大笑いするしかなすすべを知らない。これは冗談なのだ。笑ってしまおう。これが「間テクスト性」という批評上の重要な概念を示唆しているなどといった小難しい話は、今は忘れておけばいい。
伝奇集 / J.L. ボルヘス
伝奇集
  • 著者:J.L. ボルヘス
  • 翻訳:鼓 直
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(282ページ)
  • 発売日:1993-11-16
  • ISBN-10:4003279212
  • ISBN-13:978-4003279212
内容紹介:
夢と現実のあわいに浮び上がる「迷宮」としての世界を描いて現代文学の最先端に位置するボルヘス(一八九九―一九八六).われわれ人間の生とは,他者の夢見ている幻に過ぎないのではないかと疑う「円環の廃墟」,宇宙の隠喩である図書館の物語「バベルの図書館」など,東西古今の神話や哲学を題材として精緻に織りなされた魅惑の短篇集.

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