書評

『いちげんさん』(集英社)

  • 2022/07/22
いちげんさん / デビット・ゾペティ
いちげんさん
  • 著者:デビット・ゾペティ
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(216ページ)
  • 発売日:1999-11-19
  • ISBN-10:4087471454
  • ISBN-13:978-4087471458
内容紹介:
京都の大学で日本文学を専攻する留学生の「僕」。目の不自由な若い女性・京子と知り合い、次第に彼女と恋に落ちていく…。第20回すばる文学賞受賞のセンシティブな恋愛小説。(解説・沼野充義)

これが「日本文学」の生きる道

最初にタイトルを見た時は、なんだか他人事とは思えなかった。『いちげんさん』(デビット・ゾペティ著、集英社)だ。

わたし、実は「げんいちろうさん」と呼ばれることが多いのである。ほら「いちげんさん」と似ているでしょう。そういうわけで、読む前から親近感が湧いてしまう。そして、外国人の方だが、日本語がたいへん上手だと思った。この「上手」というのは誉めたことになるのかな。今回の場合は、誉めたことになると思う。それから、読んでいるといろいろな感想が浮かんでくる。それはいい作品である証拠だ。今回は、そういうようなことをいろいろ書いてみたい。

さて、わたしは「上手」という言葉を使った。『いちげんさん』は、たいへん上手に書かれた「日本文学」だと思った。しかし、この場合の「日本文学」はちょっと説明がいるのではないかと思う。

外の世界から完全に遮断されながらも、陽のよく当たる落ち着いた空間だった。辺りは植物の密かな呼吸音が聞こえてきそうなくらい静かだった。


純粋に好きだった。ホブソンの苺アイスクリームにココナッツの粉をかけて食べるのが純粋に好きな人がいるのと同じように、読書が純粋に好きだった。

しかし、今は言葉がない方がむしろ落ち着いた。その沈黙の中には、――言葉ではとうてい説明できない――確実な語り合いが含まれているような気がした。そして僕らはその無言の語り合いに、いつまでも耳を傾けていた。

「ねえ、私、男の人の髭って触ったことがないの。ちょっと触ってみていいかしら?」と彼女は悪戯っぽい声で聞いた。
「どうぞ。今週は髭に触る特別無料体験コースを実施しておりますので、遠慮なく好きなだけ触ってみて下さい」と、バーゲンセールを宣伝するスーパー・マーケットの店内放送を真似して言った。

「そうだね、〈世界の平和に乾杯〉というのは、平凡だけど、とりあえず世界の平和に乾杯しよう」僕は自分のジョッキを京子のジョッキに軽くぶつけた。
「世界の平和に乾杯!」

八〇年代以降、日本文学の中に一つの大きな新しい流れが出現した。その作品の特徴は、ざっというと、

① 単純で明澄な文章と静かな雰囲気
② 酒落たユーモラスな表現、その部分を強調するための傍点、あるいはふつうなら強調しないような箇所につけられた傍点
③ 意識的に誇張された比喩
④ 重要なポイントになると出てくる「言葉で説明することの不可能性」
⑤ 無関心ではないが、直接その問題に触れるのは恥ずかしいので、遠回しな表現で語られる社会問題
⑥ 主人公たちはたいへん優しい
⑦ 資本主義社会の文物が固有名詞で登場する
⑧ 身体、あるいは特定の物へのフェティッシュな愛情

『いちげんさん』には①~⑧の特徴のすべてが見事に現れている。それは、『いちげんさん』の作者にとって書かれるべき「日本文学」とは、目の前にある「新しい流れ」であったということだ。だが、ほんとうに驚くべきなのは、この八〇年代以降の「新しい流れ」が「日本語で書く外国人作家の視点」にあまりにもぴったりと合っていたということなのではあるまいか?

【この書評が収録されている書籍】
退屈な読書 / 高橋 源一郎
退屈な読書
  • 著者:高橋 源一郎
  • 出版社:朝日新聞社
  • 装丁:単行本(253ページ)
  • 発売日:1999-03-00
  • ISBN-13:978-4022573759
内容紹介:
死んでもいい、本のためなら…。すべての本好きに贈る世界でいちばん過激な読書録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

いちげんさん / デビット・ゾペティ
いちげんさん
  • 著者:デビット・ゾペティ
  • 出版社:集英社
  • 装丁:文庫(216ページ)
  • 発売日:1999-11-19
  • ISBN-10:4087471454
  • ISBN-13:978-4087471458
内容紹介:
京都の大学で日本文学を専攻する留学生の「僕」。目の不自由な若い女性・京子と知り合い、次第に彼女と恋に落ちていく…。第20回すばる文学賞受賞のセンシティブな恋愛小説。(解説・沼野充義)

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初出メディア

週刊朝日

週刊朝日 1996年9月6日~1998年4月24日

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