日本史上に埋もれた型破りな人々の生涯を掘り起こす
私は日本中世史を専門としていて、かけだしの、大学院生や助手時代の若い頃から、もっぱら政治史を研究の対象としてきた。歴史は人間の営みの結果である以上、人々がどのような考え方をもち、どのように行動したかが、政治の核心のテーマであったはずだが、そのように悟ったのは比較的近年のことであって、若いときは人物論にはあまり関心がなかった。そのような筆者の若年時の考え方は、私が元来経済史学の畑で育った(学部学生の頃)こと、「歴史は個人がつくる」という考え方にかなり抵抗を抱いていたことと関係があるかもしれない。
私のその頃の研究対象は、幕府の制度とか、地方の守護大名の統治機構とか、そういう集団のあり方ばかりに関心が向かっていたのだった。いまになってふりかえってみると、当時は意識的にそうしていたのだろう。人物論などは学問の対象にならないといった考え方が頭のどこかにあって離れなかったように思われるのである。
ところが、馬齢を重ねて年を食ってくると、史上に活躍した人々の生き方、考え方といった面に強く興味が向かうようになってきた。それは人並みに人生経験を積み、世の中とはかならずしも理屈どおりに動くものではない、人の世は不条理の連続であると感じるようになってきたことが関係しているのかどうか、ともかく個人の生き方にひどく気を引かれて、伝記的興味がしきりにそそられるのである。
それも、私の場合は、義満とか、信長とか、そういったいわゆる英雄や著名人ではなく、その脇役か、あるいはまったく無名の、または多少有名でも意外な面が人に知られていない、といった本筋からはずれた人々に思い入れが向かうのである。
商売柄、古文書や古記録(日記)など、古い時代の人々によって書かれた文章を読み、眺めることが仕事の大部分を占めるのだが、そうしたとき、「あれ、この事実はいままで知られてなかったな!」とか、「この人物がこんなことをやっていたのか」と、未知の事実に驚かされることが多い。
しかし専門家の業務である論文に使えないとなると、右のような大小のエピソードは、打ちすててそのままになることがほとんどである。しかし、メモなど取らなくても、妙にそんな記事や思いつきこそ記憶に残るもので、授業の余談などで学生に話し、反応があるとなると今度は、「一般の人々にも知ってもらいたい」と、つい欲が出てくることになる。
今回、編集子から執筆の要望があったのを機会に、そうした“主流はずれ”の人物論をテーマにすえることにした。そうした人々の種々の「生きざま」を通観することにより、中世とはどのような時代・社会であったのかが少しでも浮かびあがってくるようになれば、この企画は成功であるかもしれない。
なお、本書では原史料(古記録)の引用個所について、一般読者には難解であるため、多くを現代語訳した。翻訳が困難な部分は思い切って意訳したものもあるので御了解を得たい。
また、本書でいう“奇人”とは、今日いう奇人・変人の意味ではかならずしもない。数奇なる運命をたどった人、常人とは少し変わった生き方をした人物、というくらいに受けとっていただければ幸いである。
[書き手] 今谷明 (いまたに・あきら)
1942年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得。文学博士。日本中世史専攻。横浜市立大学教授、国際日本文化研究センター教授を経て都留文科大学学長、現在、国際日本文化研究センター名誉教授