書評

『世界地図から消えた国―東ドイツへのレクイエム』(新評論)

  • 2023/07/25
世界地図から消えた国―東ドイツへのレクイエム / 斎藤 瑛子
世界地図から消えた国―東ドイツへのレクイエム
  • 著者:斎藤 瑛子
  • 出版社:新評論
  • 装丁:ハードカバー(222ページ)
  • ISBN-10:479480086X
  • ISBN-13:978-4794800862
内容紹介:
東独在住30年の著者が、市民の目で捉えた国家消滅過程。

挫折を直視する勇気

ここ何年かの間にソ連・東欧の社会主義国家がつぎつぎと崩壊した。さりとて、「人を押しのける自由」の横行する資本主義に未来を託せようか。しかも地球環境危機は、二十一世紀の人類の生存さえも危ういものにしている。ほんとうに考えるべきことの多い時代となった。かつて一度はマルクスやレーニンの理論の有効性を「信じ」、まだ社会主義への希望を捨て切っていない身として、私は斎藤瑛子著『世界地図から消えた国――東ドイツへのレクイエム』(新評論)を痛切な思いで読んだ。

斎藤さんは一九五八年二十代で、東ドイツに留学した。戦後の「即物的な豊かさへの盲信、驕れる多数派の独壇場」とみえる祖国日本を捨て、「個としての人間を真に解放し、ひとりひとりの人間の自由を保障する社会、多数派が少数派を、強者が弱者を差別しない社会」――つまり、「本当の社会主義」を夢みた。

東ドイツが日本と国交を結ぶまでの十五年間、著者は両国のかけ橋になろうとした。西側のマスメディアで宣伝されるような独裁・圧制の国ではないこと、普通の人々が希望をもって働き、幸せに暮らせる国だということを日本人に知らせようとした。オリンピックの通訳や、文化交流にも携わった。

「社会主義の優等生」東ドイツとは、暮らしてみてどんな所だったか。外国人だから、女性だからといって差別されなかった。働く意志のある人は必ず職場が得られた。賃金は高くなくても物価は安く、値上げもなかった。たとえば小型の丸パンは三十二年間、断固として一個五ペニヒ(ほぼ五円)にとどまった。ゆったりした百四十平米の家が一万円で借りられ、千平米のセカンドハウスも持て、夏冬二週間のバカンスがとれた。教育費も、たとえばオペラの入場料もタダ同然だった。

しかし生活そのものには不満が少なくても、その世の中には「感謝」や「従順」「無条件の賛同」が押しつけられる重苦しさがあった。権力は「労働者階級」の手にあるといいながら、ドイツ社会主義統一党(SED)だけが、国のあらゆる機能を、国民生活のあらゆる分野を「指導」した。芸術やスポーツまでも。市民的権利は「その党が保証する限りにおいて」しか行使されず、合法的に有名無実化された。

だから出世したい人も、発言権を持ちたい人もこぞって党に入った。そうして特権を得、保身しようとした。批判者は「反共主義」とレッテルがはられ、一方的に除名され、あるいは国外追放された。秘密警察が横行し、東ドイツの市民は自分でモノを考え、意見を口に出すことをやめた。いや、できなかったのである。このような驚くべき「時代錯誤」こそ、四十年の歴史をもつ、千六百万人の国家、暮らしよいはずの国がこんなにあっさりと消えた理由ではなかったか、と著者はいう。だがその認識も、東ドイツの消滅ののちにはじめていえることだったのだ。自分に現実を直視する力がなかったことを、著者は慙愧の念をもって振り返る。

ベルリンの壁が崩れた一九八九年十一月九日以来、東ドイツは西ドイツに吸い込まれる形で、国としての姿を消した。〈得〉という理由で党員だった人々は、こんどは〈損〉という理由で党からぬけた。深く考えるのを避けながら、マルクス・レーニン主義からマネーへの順応にと身をすり替えた。そしてドイツはいま、倒産、失業、犯罪、住宅不足などの深刻な問題をかかえている。

斎藤さんは「壁」ができた一九六一年も、それが崩れた一九八九年もベルリンにいた。その体制を信じ、そこで女性の市民として生きた。この体験が、本書を時代の証言として、一時期にどっと出た研究者やジャーナリストによる類書とは異なる深みと重みをもったものにしている。

著者の「東ドイツの社会主義」への落胆の長い過程はまた、専門を同じくするドイツ人研究者と恋をし、結婚をし、子どもが生まれて成長し、夫に女性ができて離婚する、というまさに〈女の愛と生涯〉の日々と重なってもいた。個人的な恋愛の破局と、社会主義国家の破局が連関する。ここも実につらい共感をもって私は読んだ。著者はその人生の体験に身を沈めつつ、すべてを問い直していく。矛盾は矛盾として、行きつ戻りつ、すべてを疑問形で一つ一つ自らに問う。

搾取をなくし、差別や不正なき社会をめざした名誉ある試み、社会主義。その試行の歴史と成果を無視することはできない。挫折を直視する勇気をもち、草の根の市民運動の初心にたちかえり、民主主義を組み直していくしかないと著者はいう。「それみたことか」式の結果論がはびこる日本で、この本は読まれるべき一冊だと私は思う。

【この書評が収録されている書籍】
読書休日 / 森 まゆみ
読書休日
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(285ページ)
  • 発売日:1994-02-01
  • ISBN-10:4794961596
  • ISBN-13:978-4794961594
内容紹介:
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、… もっと読む
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、『ゲーテ恋愛詩集』、そして幸田文『台所のおと』まで。地域・メディア・文学・子ども・ライフスタイル―多彩なジャンルの愛読書の中から、とりわけすぐれた百冊余をおすすめする。胸おどる読書案内。

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世界地図から消えた国―東ドイツへのレクイエム / 斎藤 瑛子
世界地図から消えた国―東ドイツへのレクイエム
  • 著者:斎藤 瑛子
  • 出版社:新評論
  • 装丁:ハードカバー(222ページ)
  • ISBN-10:479480086X
  • ISBN-13:978-4794800862
内容紹介:
東独在住30年の著者が、市民の目で捉えた国家消滅過程。

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初出メディア

DIY(終刊)

DIY(終刊) 1991年12月~1992年8月

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