書評

『古典の愛とエロス』(朝日新聞)

  • 2023/08/03
古典の愛とエロス / 出口 裕弘
古典の愛とエロス
  • 著者:出口 裕弘
  • 出版社:朝日新聞
  • 装丁:単行本(233ページ)
  • 発売日:1992-07-01
  • ISBN-10:4022564849
  • ISBN-13:978-4022564849
内容紹介:
物語の中に、日記の中に、恋の情念が狐火のように燃える。日本古典の女と男の世界に、フランス文学者の目が分けいる。

女の夜更かし

夏休みは子どもがまとわりつく。日中弁当作りと水着の洗濯に追われ、読書は暑苦しき夜の寝覚めとなる。六畳間に飛び散る子らを眺めつつ、何を読もう。うんと現実から遠いのがいい、と手にしたこの『古典の愛とエロス』(出口裕弘、朝日新聞社)。裏切られなかった。

こころ動く日本の古典に分け入り、その現場に立ってみる。そのとき「恋の大事」と考えたい。小事とは思わない。著者は仏文学者で、名うての読み巧者。学殖をひけらかさずしてそっとしのばせ、エロティシズムの哲学者バタイユなどもときに証言台に呼び出す、そんな、洒落(しゃれ)たくわだて……。

『源氏物語』の若紫から愛の旅ははじまる。そういえば私、水泳の岩崎恭子ちゃんの面差しに紫の上を思いだしたばかり。あの光る君をとりわけ深く長く捉えつづけたひと。幼く無垢(むく)な紫の上に女人開眼をさせるのは好色の極みであろう。が、光る君を負の星の下に生まれた皇子(みこ)として紫式部は造型した。苛め殺された母桐壺の更衣、父の妃藤壺、そして紫の上という転生の宿命的恋愛として描いたからこそ、これは純正な「愛」の悲劇となった。男が書けばこうはいくまい、かぎりなく『好色一代男』に傾く、と著者はため息をつく。

『宇治十帖』も俎板(まないた)に乗り、こちらも読みごたえがある。これ、と狙いをつけたら手に入れるまで直進あるのみの匂宮。「今日ばかりはかくてはあらん。何ごとも生ける限りのためこそあれ」。バタイユ式にいうと「現瞬間への完全燃焼型」の男。一方の薫大将は、相手がほだされて、どっと崩れるところまで来ているのに、決定的な一歩を踏み出せない、心やさしい逡巡の人。こんな対照的な二人に愛された浮舟は、心の深層で、不実な匂宮をはっきりと選んだ自分に慄然(りつぜん)とし、仏心篤きゆえに自裁したのではなかろうか。なあるほど……。

几帳(きちょう)の裾(すそ)をめくるのはこれくらいにして、あとは読んでのお楽しみ。概して女性に同情が深いようだ。恋する男と添いとげる以外なんの悪心もない『雨月物語』の真名児(まなこ)の化身ゆえの痛ましさ。数多くの男に翻弄された『問はずがたり』の後深草院二条に強烈なナルシズムを嗅ぎながら、モノとして扱われた女の悲しみへも思いを寄せる。都落ちにすら十一人もの愛人を船に乗せた義経の度しがたさと、対照的な白拍子静御前の毅然。日本にはなんと輝かしくも前むきな女性の先輩がいたことだろう。

とりわけ『かげろふ日記』の右大将道綱の母(藤原兼家の恋人といった方がいいのに。どうせ育児は恋愛の後始末なんだから)へは相当入れこんでいらっしゃいます。不実ではないが無神経な夫にいかに彼女は傷ついたか。もっと奔放に女として開花したなら、和泉式部のような熱い恋歌が後世に残ったはず、と夢想してみたり。いやそれでは『かげろふ日記』が読めなくなってしまう。兼家すらたじろがせた「自分をあざむけない眼」をもつ彼女の散文精神に乾杯……。この迷いはほほえましく拝見しました。

それにしても恋の歌はほとんど嘆き、恨み、苦しみに彩られている。それでこそ、正直。

著者は例外を一つあげてくれる。

目に嬉し恋君の扇真白なる 蕪村

でもこの至福の瞬間が破滅の入り口でもあるのですね。勁(つよ)く烈(はげ)しく愛するために人は生きていることを教えてくれた、あなたはどんな方でしょう。ちょっと透見(すきみ)がしたくなりました。

【この書評が収録されている書籍】
読書休日 / 森 まゆみ
読書休日
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(285ページ)
  • 発売日:1994-02-01
  • ISBN-10:4794961596
  • ISBN-13:978-4794961594
内容紹介:
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、… もっと読む
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、『ゲーテ恋愛詩集』、そして幸田文『台所のおと』まで。地域・メディア・文学・子ども・ライフスタイル―多彩なジャンルの愛読書の中から、とりわけすぐれた百冊余をおすすめする。胸おどる読書案内。

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古典の愛とエロス / 出口 裕弘
古典の愛とエロス
  • 著者:出口 裕弘
  • 出版社:朝日新聞
  • 装丁:単行本(233ページ)
  • 発売日:1992-07-01
  • ISBN-10:4022564849
  • ISBN-13:978-4022564849
内容紹介:
物語の中に、日記の中に、恋の情念が狐火のように燃える。日本古典の女と男の世界に、フランス文学者の目が分けいる。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 1990年6月~1993年3月

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