御伽草子『あきみち』
「趣味人」「道楽者」「隠者」などの言葉にたいへんに憧れているのだが、どういうわけだか、なかなか娑婆気(しゃばっけ)が抜けない。世間のことがまだまだ気になる。この二、三カ月というもの、奇妙な宗教(オウム真理教)集団のことで頭がいっぱいになってしまって、本を読む気になれなかった。近頃、やっと少し落ち着いた(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年頃)。それで急に『あきみち』が読みたくなった。『あきみち』というのは、室町時代から江戸初期にかけて作られた、いわゆる御伽草子の一編である。私は二十代の、暇をもてあましていた頃に、岩波の「日本古典文学大系」のシリーズを何冊か読んだのだが、その中で御伽草子の巻が面白く、中でも『あきみち』という話が強く印象に残ったのだった。
うーん……ちょっと説明が長くなる。地下鉄サリン事件が起きた頃、私はたまたま国枝史郎の『神州纐纈(こうけつ)城』(大正十四~十五年に書かれたもの。’95年春、講談社文庫「大衆文学館」シリーズでリバイバル出版された)を読んでいた。富士山麓に奇怪な仮面の城主と、神秘的なマイナー教団が、悪と善それぞれのユートピアを作ってかくれ住んでいる……という傑作小説である。サリン事件の二日後、オウム真理教にたいする強制捜査が始まって、その異様な実体が明らかになっていくに従って、私は『神州纐纈城』との暗合に驚かずにはいられなかった。富士には、この現世と隔絶したユートピア志向をかきたてる、何かしらの引力があるのだろうか、と。
そこからもうひとつ連想したのが、この『あきみち』だった。
時代は鎌倉時代と思われる、復讐談である。大金持の息子で、文武両道にすぐれ、しかも美しいあきみちという若者が、親のかたき討ちをする。かたきは金山の八郎左衛門という「日本一の夜盗」である。この八郎左衛門というのが、頭のいい、したたかなワルだ。鎌倉幕府からにらまれているのに、なかなかシッポをつかませない。いずこともなく姿をくらましてしまう。どこに寝起きしているのかが、誰にもわからない。
それを、あきみちの妻(これまた、凄い美貌)が体を張って籠絡(ろうらく)して、ついにつきとめる。八郎左衛門に案内させるのだ。邸の奥の一室にかくし扉があり、そこから秘密のかくれ家――岩穴座敷に行くようになっている。そのアジト判明のところの描写が、わくわくさせられる。
(奥座敷の)帳台(ちょうだい)の後ろを通り、小さき戸を引(き)あけて、連れて行かれける。その間(あい)四五間ばかり有(り)て、後(うしろ)に水湛へたる谷河あり。おのづから清水にこそ見えにけり。この川の上に小舟をつくりて浮べを(お)きたり。
(八郎左衛門は)北の方の手を引(き)て、この舟に乗せ申(し)、一町ばかり漕ぎ行(き)ければ、山の岨(そわ)に舟をさしつけて、上なる山へ道をつけて登りける。ちと間ありて三間四方ばかりなる岩の穴あり。
岩穴の内には、高麗縁(こうらいべり)の畳を敷きつめ、よき物の具どもを掛け並べ、茶の湯なんどこしらへて、さも人の住むやうにぞ見えにけり。
――という、秘密の別世界である。『神州纐纈城』の壮大さに較べたら、ごくスケールは小さいが、岩穴洞窟の奥に自由の天地を築きあげてしまうところは同じだ。暗く、ひんやりとした空気や、“冥界”といった言葉を思わせるような山河のありさまも、よく似ている。私は、そういう風景に、何か、胸しめつけられるような懐かしさというか恋しさのようなものを感じる。太陽ギラギラではない、月やろうそくのあかりのロマンティシズム。
こういう「山岳ユートピア」というのは、日本文化の中に一つの確固とした流れとしてあるんじゃないだろうか。
説明が長くなった。とにかく、そういう連想で、ひさしぶりに『あきみち』を読み直してみたのだった。
岩穴アジトの描写の部分ばかり、強烈な印象として残っていたのだが……今回、読み直してみたら、あきみちの妻と八郎左衛門の虚々実々の駆け引きが、実にうまく、娯楽的に描かれているので、感心した。
八郎左衛門はたいへんに用心深い男で、惚れた女にたいしてもなかなか心を許さない。あきみちの妻の嘘を、もうちょっとで見破りそうになる場面が、いくつかあって、読者をヒヤヒヤさせる。たとえば、あきみちの妻は八郎左衛門が外出している間に、ひそかにあきみちを呼び寄せ、舟に乗って岩穴アジトへ案内するのだが、そのあとでそしらぬ顔をして八郎左衛門と共にアジトに行こうとする場面。
八郎左衛門は舟を見て、すぐに「これはおかしい」と言う。「我余所(よそ)へ行きさまに、繋(つな)ぎし結び目違(たが)ふたり、その上、人数(にんじゅ)の乗りたる舟と打ち見えて、水ぎは深く濡れあがる事不思議なり」――。舟のロープの結び目も違うし、自分一人で乗ったにしては舟の濡れているところが高すぎるというのだ。
これに対し、あきみちの妻はすばやく機転をきかせた嘘をつき、八郎左衛門を言いくるめる。「ハラハラ、ドキドキ」というエンターテインメントのツボを、うまくおさえている。八郎左衛門は立派な悪党なのに、この美貌の女に惚れこみ、裏切られるところが、哀れだ。
あきみち夫婦と八郎左衛門の三角関係の心理も、案外と面白く書けている。あきみちは父親のかたき討ちのために、愛する妻を利用する。八郎左衛門に接近して“貞操”を提供して、弱味を握れ――と頼み込む。そのくせ、いざ、妻が八郎左衛門に気に入られ、その子どもまで生んだ――というのを知ると、嫉妬で腹を立てる。ヒーローのあきみちは、そういう「煩悩」の男である。
あきみちもその妻も最後は出家して、菩提をとむらう――という形で、この、こんがらがった話に、ありがちな結着をつけるというか、いきなり高尚ふうに話の帳尻を合わせているのだが……。
そうそう。この「古典文学大系」の御伽草子の巻には『ものぐさ太郎』も収録されていて、私はこの話も大好きなのだ。今回読み直してみたら、そのスラプスティック(どたばた)的展開に啞然とし(何しろ、「焼け卒都婆(そとば)」のごとく汚い太郎が、高貴な女の手をいきなり握り「キスしてくれれば、手を離す」などと迫るのだ)、日本人の笑いのセンスってこんなにも上等でパワフルだったんだ……と再確認したのだった。
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