仁科邦男氏の『「生類憐みの令」の真実』によれば、綱吉は名君などではなかったし、実は動物を愛してさえいなかった、とのこと。ここでは、同書より「はじめに」を抜粋・紹介します。
綱吉は愛犬家ではない
不思議なことに生類憐みの令からは個々の動物に対する愛情がほとんど感じられない。将軍になる前の二十七年間「右馬頭(うまのかみ)様」(松平右馬頭綱吉)と呼ばれ、娘「鶴姫」をこよなく愛した綱吉は、馬と鶴には特別な愛情をそそいでいたが、それ以外は犬でさえ特にかわいがった形跡がない。「見知らぬ犬でも食事を与えて養いなさい」と江戸の町に御触れを出したが、町の犬が城内への立ち入りを認められ、養われた記録はどこを探しても見つからない。綱吉の時代、江戸城に「御馬屋」はあっても「御犬小屋」はなかった。戸田茂睡(もすい)『御当代記』によると、山王権現(現日枝神社)に参詣した帰り道、御成り行列について来た一匹の犬を側用人(そばようにん)の牧野成貞(なりさだ)に飼うように命じたことがある。これが史料で確認できる綱吉ただ一度の犬憐み実践例である。綱吉の父家光(三代将軍)は関白左大臣・鷹司(たかつかさ)家の娘を正室とし、兄家綱(いえつな)(四代将軍)は宮家の娘を正室に迎え、綱吉の正室も鷹司家の娘だった。綱吉の母桂昌院(けいしょういん)は、家光の側室となった公卿の娘の侍女として京都から来た。禁裏の女性たちは愛玩犬の狆(ちん)を飼っていたが、江戸城大奥にもその習慣が持ち込まれた。大奥では狐よけに狆を飼ったというが、綱吉自身が狆をかわいがったかどうかは不明である。貞享(じょうきょう)四年(一六八七年)、江戸の町中で生きた生類の売買が禁止され、元禄元年(一六八八年)には、犬の死を穢れとし、その穢れに触れた時はまる一日、歴代将軍の墓参、霊廟参拝が禁じられた。元禄七年(一六九四年)、改めて江戸の町での犬商売が禁止された。大奥の女性は狆を自ら繁殖させたりしない。狆は動物を扱う鳥屋から買っていた。どこかの時点で綱吉は大奥で犬を飼うことをやめさせてしまったように思われる。少なくとも綱吉は今我々が考えるような愛犬家ではなかった。
生類憐みの令は、単純な動物愛護法ではない
多くの辞書・事典類は、生類憐みの令について「綱吉が発令した一連の動物愛護法」と要約しているが、非常に誤解を与える表現と言うべきだろう。単純な動物愛護法ではないのだ。綱吉は少年時代から人や動物の死に対する嫌悪感が強かった。十二歳の時、明暦(めいれき)の大火を体験した。死者は十万人を超え、町には人、牛馬、犬猫の死体が山積みされた。綱吉邸も燃えた。焼け跡の中で何を感じたのか、綱吉は黙して語らない。やがて綱吉は大名の心得である鷹狩りにも出なくなった。鳥の命を奪うことが耐えられなかったに違いない。生類憐みの志はすでに芽生えつつあったと言っていいだろう。
人はだれも死を忌避する。綱吉もその一人である。ただ綱吉が特異だったのは、司法と立法と行政とあらゆる人事権を掌握する絶対専制君主になったことだ。公方(くぼう)様のやることについて、あれこれ噂することさえ許されない時代だった。生類憐みの令には、将軍である綱吉のさまざまな個人的感情が投影され始める。果たして動物愛護が主目的なのかどうか、それさえ怪しくなる。
綱吉の生類憐みの志は変貌していく。初期の段階では嫡子徳松を亡くしたあとの男児誕生願望と結びつき、次の段階では堯舜(ぎょうしゅん)の世(理想社会)を実現するための政治的意義が強調され、最終段階では「天」を恐れ、天変地異を鎮めるために連発する。
綱吉は法を守らない者は厳罰に処した。時に人の命は動物の命よりも軽くなった。在位二十九年。幕閣はだれ一人綱吉に頭が上がらない。批判もされず、長く権力の座にある者は道を誤る。生類憐みの令がその典型だった。
生類憐みの令の歴史評価はどう変わってきたか
かつては悪法中の悪法と言われた生類憐みの令の歴史評価が変わりつつある。代表的な国語辞書である『広辞苑』は一九五五年(昭和三十年)に第一版が刊行され、以降、内容の改訂が重ねられて二〇一八年(平成三十年)に第七版が出版された。その記述も時代を映す鏡のように大きく変わった。その第一版―
貞享四年、五代将軍綱吉の発布した命令。僧隆光(りゅうこう)の言により、魚鳥の売買を禁じ、特に犬を愛護させ、これを殺傷する者を斬罪(ざんざい)に処した。その趣旨は儒・仏の思想に基づき殺伐・不仁の風を矯(た)め(改め正し)、慈悲を生類にまで及ぼさせようというのであったが、後、極端に走って人民を苦しめ、犬公方と呼ばれた。(かっこ内は筆者補足)
過不足なくまとめた当時としては常識的な記述と言えるだろう。文中に出てくる僧隆光は戌年(いぬどし)生まれの綱吉に犬を愛護するよう進言したとされる僧侶である。
一九六九年(昭和四十四年)の第二版では、第一版の「綱吉の発布した命令」を「綱吉の発布した動物愛護の命令」に改め、「動物愛護」のための法令であることを強調した。さらに記述の中間部分「その趣旨は儒・仏の思想に基づき殺伐・不仁の風を矯め、慈悲を生類にまで及ぼさせようというのであったが、後」を削除した。僧侶である隆光の進言によるものだから「儒・仏の思想に基づき」の「儒(儒教)」は誤解を招くのではないかという判断が働いたのかもしれない。
一九八三年(昭和五十八年)刊行の第三版では次のようになった。
一六八七年(貞享四)、徳川五代将軍綱吉の発布した動物愛護の命令。僧隆光の言により、魚鳥の食料としての飼養を禁じ、畜類、特に犬を愛護させ、これを殺傷する者を斬罪に処した。極端に走って人民を苦しめ、犬公方と呼ばれた。
「魚鳥の売買を禁じ」とあったのを、より正確に「魚鳥の食料としての飼養を禁じ」に書き換えた。すべての「魚鳥」売買が禁止されたのではなかったからだ。「畜類」という言葉も新たに加えられた。
一九九八年(平成十年)刊行の第五版で大きな変更があった。第一版から四版までにあった最初に法令を出した年号「貞享四年」を削除し、始まりの時期に触れるのを避けた。貞享四年説に代わって貞享二年始まり説が多数説になり始めていたからだろう。すでに同社刊行の大石慎三郎『元禄時代』(岩波新書、一九七〇年)は「生類憐みの令は貞享二年が最初」と明記しており、この記述と整合させるためにも、始まりの年号を削除する必要があったのかもしれない。
二〇〇八年(平成二十年)の『広辞苑』第六版では、さらに大幅な書き換えがあった。
徳川五代将軍綱吉の発布した動物愛護の触書きの総称。捨て子、捨て病人の禁止から牛・馬・犬・鳥・魚介類などの動物の虐待・殺傷の禁止にまで及んだ。違反者は厳罰に処せられたため、綱吉は犬公方と呼ばれた。一七〇九年(宝永六)廃止。
それまでは「僧隆光の言により」という記述があったが、この版から僧隆光の名も消えた。「隆光が生類憐みを進言したのは俗説であり、事実ではない」という説が有力説として浮上したためだろう。「捨て子、捨て病人の禁止」も生類憐みの令に加えられた。
最新の『広辞苑』第七版は第六版と同文である。生類憐みの令の歴史評価は微妙な変化を重ねながら大きな変貌を遂げてきた。それに伴って『広辞苑』の記述も変わった。この間、事実の解釈が揺れ動いている。
生類憐みの令の「見直し論」は正しいのか
日本史辞典として評価の高い吉川弘文館『国史大辞典』の第七巻(一九八六年)は「貞享二年始まり説」と「僧隆光による進言否定説」を明記した最初の辞書、事典類となった。その「生類憐みの令」の項は「通説によると、嗣子(しし)に恵まれなかった綱吉が殺生を慎み、生類を憐れみ、戌年生まれだから犬を大切にするよう隆光から進言された」(要約)ことが「発令の動機になったといわれるが、必ずしも根拠のある説ではない」と主張し、貞享二年七月の江戸町触れをその始まりとした。さらに「生類憐みの対象が人(捨子、行路病人、囚人など)に及んだ点も看過できない」と述べた。次いで『国史大辞典』第十四巻(一九九三年)の「隆光」の項は「(隆光は)妖僧と酷評されたこともあるが、不当な評価である」と言い切った。多くの辞書・事典類、高校教科書もこの記述に歩調を合わせるように、生類憐みの令見直し論に転じていった。今はこれが多数説である。
人は新しいものに興味を持つ。歴史上の評価をくつがえす学者の説、見解に関心が集まる。綱吉政治の再評価、生類憐みの令の見直し論はテレビ、新聞、ネットに次々と現れる。新事実を強調するテレビ番組を見て、「そうだったのか」と思った人も多いだろう。
NHKの人気歴史番組「歴史秘話ヒストリア」は二〇一七年六月二日放送の「将軍様と10万匹の犬―徳川綱吉と大江戸ワンダーランド」の中で「犬を傷付けただけで死罪になった悪法というイメージがありますが、最新の研究でその意外な実像が明らかになってきました」とキャスターに語らせた。「跡継ぎがいなかったために生類憐みの令を始めたというのは俗説で、その時そのお坊さんは江戸にいなかった」と隆光進言を否定したうえで、「命の大切さをみんなが理解してこそ平和な世はやってくる。生類憐みの令を始めたのはそういう考えからでした」と述べ、「生きとし生けるものすべてを大切にする気持ちがあれば、人はもっとやさしくなれるはずだ。それが一人の将軍の切なる願い」だったと締めくくった。
テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」に、綱吉が描いた達磨(だるま)の絵の掛け軸が出品された(二〇一七年十一月二十一日放送)。本物と鑑定されて百五十万円の値がついたが、この時、流れたナレーションは次のように語った。
「江戸幕府第五代将軍綱吉は天下の悪法と言われる生類憐みの令を発布したことにより、犬公方と呼ばれ、暗君の極みとされてきた。しかし、近年の研究ではその実像は全く異なり、文治国家の礎を築いた名君として高く評価されている」「実際に掟を破り重罪に問われた者はごくわずかだった。むしろこの法は戦国時代以来、紙切れのように価値が下がってしまった命の尊さを人々に再認識させるものだったと言えるのである」
今や常識のように語られ始めた、これらの多数説と私の考えは相いれない。綱吉名君論や生類憐みの令の見直し論は、綱吉治世下に生きた大多数の人々、名もない庶民の感情を軽視している。
生類憐みの令は綱吉なりの論理と感情に支えられ、次々と発令された。歴代将軍の中で個人の意思をこれだけ赤裸々に表明した人物は綱吉以外にいない。一つ一つの法令、命令がなぜ出されたのか、それを探ることによって、生類憐みの令の真実の姿が明らかになるはずだ。
生類憐みの令見直し論は、貞享二年始まり説を支持することによって成り立っている。なぜなら、その始まりの時、隆光は江戸にいなかったからだ。私は貞享二年始まり説を支持しない。貞享三年に「生類憐み」という言葉が初めて使われた「犬の車事故防止・犬養育令」を始まりとし、隆光無関係説を否定する。その時、隆光は江戸にいたのだ。捨て子禁止を生類憐みの令に含むことにも反対する。綱吉は「人を含まない生類」を憐れむことに特別な意義を見出したのであって、捨て子は含まれないのだ。これ以外にも、これまでほとんど論じられることがなかった以下のような生類憐みの令の新しい事実を本書の中で明らかにしようと思う。
○「馬」「犬」「鶴」に対する個人的な思い入れが法令に執着させた要因の一つであることを立証する。
○「トビとカラスの巣払い令」を生類憐みの令だとする従来の所説を否定し、江戸城と将軍家霊廟を糞害から守るためだったことを立証する。巣を払うことが生類憐みであるはずがない。江戸城を聖域化するために出したと考えられる法令はほかにもある。
○酒嫌いの綱吉が出した「大酒飲み禁止令」が生類憐みの令の関連法だった可能性を指摘する。
○中野犬小屋に収容された多くの犬は特定の飼い主はいないが地域の人々と暮らしていた里犬(さとぬぬ)(町犬、村犬)だったことを明確にする。野良犬ではない。さらに犬保護政策が犬の爆発的増加を招き、江戸の犬問題を解決するため犬減少政策に変貌したことを論証する。
生類憐みの令とは具体的にどのような法令で、どのような処罰例があったのか、その全体像がわかる本が意外なことに見当たらない。そこで、この本を書くにあたっては「生類憐み」をめぐってどんなことが起きていたのか、できるだけ事実を書き記すように心がけた。その事実が起きた年月日も可能な限り記載した。生類憐みの令とこれに関連する禁令、御触れ、事件、処罰例を年表にして巻末に記載したが、年月日をもとに年表を調べれば、どういう状況の中でその法令が出されたのか、ある程度の見当はつく。
生類憐みの令が何回出されたか、著書の中で明らかにしている研究者がいるが、私は数えることはすでに断念している。生類憐みの令かどうか判断に悩む法令は数多く、同じ法令も繰り返し出ている。巻末年表は長すぎて煩雑になることを避けるため、知り得た事例をすべて網羅しているわけではないが、生類憐みの令の全体像がわかるように年表を作成した。
[書き手] 仁科邦男(にしな・くにお)
1948年東京生まれ。70年、早稲田大学政治経済学部卒業後、毎日新聞社入社。下関支局、西部本社報道部、『サンデー毎日』編集部、社会部などを経て2001年、出版担当出版局長。05年から11年まで毎日映画社社長を務める。名もない犬たちが日本人の生活とどのように関わり、その生態がどのように変化してきたか、文献史料をもとに研究を続ける。ヤマザキ動物看護大学で「動物とジャーナリズム」を教える(非常勤講師)。著書に『九州動物紀行』(葦書房)、『犬の伊勢参り』(平凡社新書)、『犬たちの明治維新ポチの誕生』『犬たちの江戸時代』『西郷隆盛はなぜ犬を連れているのか』(いずれも草思社)がある。