書評
『緒方洪庵』(吉川弘文館)
幕末の蘭医学者を手堅く実証
緒方洪庵(こうあん・1810~63)は、幕末期に大坂で適塾を開いた蘭医学者である。洪庵・適塾研究の第一人者である著者の手になる本書は、歴史学者としての手堅い実証に裏付けられた、最も信頼すべき緒方洪庵伝といってよい。中天游(なかてんゆう)、坪井信道(つぼいしんどう)、宇田川榛斎(うだがわしんさい・玄真)という、当代一流の蘭医学者のもとでの学問形成、当時の医学界に多大の貢献をした『扶氏(ふし)経験遺訓』をはじめとする洪庵の著訳書が生み出された経緯、適塾における塾生教育、洪庵がその後半生をかけて取り組んだ牛痘(ぎゅうとう)種痘事業やコレラ対策、幕府の奥医師兼西洋医学所頭取としての最晩年の活躍などが、膨大な史料を駆使しつつ、わかりやすく語られている。
本書から浮かび上がる洪庵像は、自らの社会的責務を強く自覚し、それを見事に実践した医師・医学者としての姿である。種痘事業はその一例で、世間の偏見にもひるまず、西日本の種痘センターともいうべき大坂除痘館(じょとうかん)を創設し、幕府の公認も実現させた。
また、「我が蘭学一変の時節到来」として、これまでのやり方にこだわらず、絶えず新しい学問動向を取り入れようとする柔軟さもうかがえる。開国以降、自身が受け、弟子たちにも施してきた蘭学教育が、もはや過去のものになりつつあることに真っ先に気づいたのは洪庵であった。
適塾からは、橋本左内、福沢諭吉など、のちに新時代を切り開くことになる有為の人材が多数育ったが、彼らを育てたがゆえに洪庵が偉大であったのではない。洪庵なくしては、その後の彼らの活躍もなかったであろう。混迷を深める今、洪庵の生き方から学ぶべきことは多い。
[書き手] 村田路人(むらた みちひと・大阪大学大学院文学研究科教授)
初出メディア

しんぶん赤旗 2016年5月15日
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