解説

『外人術―大蟻食の生活と意見 欧州指南編』(筑摩書房)

  • 2017/07/06
外人術―大蟻食の生活と意見 欧州指南編 / 佐藤 亜紀
外人術―大蟻食の生活と意見 欧州指南編
  • 著者:佐藤 亜紀
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(342ページ)
  • 発売日:2009-07-08
  • ISBN-10:4480426116
  • ISBN-13:978-4480426116
内容紹介:
外国で友達を作ろうと思うな、美術館になぞ行く必要はない、無気力と停滞こそが夏場の旅行の醍醐味である―エッセイの名手でもある著者が、自身の留学/旅行体験をもとに海外旅行の常識を覆す。単行本未収録エッセイ収録。
小説にしろエッセーにしろ、佐藤亜紀の本のタイトルはどれも秀逸である。タイトルからしていきなり読者の心を鷲摑みにする。『バルタザールの遍歴』しかり。『戦争の法』『ミノタウロス』しかり。『略奪美術館』『陽気な黙示録』もそう。一冊でも佐藤亜紀の本を読み、その世界の魅力にとらわれた経験のある読者なら、書店で新刊を見つけたら直ちにレジに駆けつけているはずだ。『外人術』。このタイトルを最初に書店で見かけたときの私がそうだったように。近年、不当にもある種の蔑称扱いされている感のある「外人」と処世術や記憶術の「術」の、ちょっとシュールとでも言いたくなるような意表を突く組み合わせには、いまなお新鮮な驚きを感じる。

日本国語大辞典第二版で「外人」を引くと、以下の説明がある。
 
①家族、親戚、仲間、同宿などの範囲の外にいる人。無関係の人。疎遠な人。他人。また、その土地の人ではない人(十世紀の用例のほか、日葡辞書の「他国の人すなはち土着でない人」という例も載っている)

②外国人(用例は一八七五年の福沢諭吉『文明論之概略』)

蔑称どころではない。「外人」とはラテン語起源の「エトランジェ」同様、もともとは陶淵明の用例まで遡ることのできる由緒正しき言葉であった。「外人」としての自分を引き受けるとは、「外国人」でありながら「余所者」であるという特権を活かして「瑣末ではあるが神経を擦り減らす諸々の事柄とおさらば」することにほかならない。そうして重苦しい帰属意識を捨て去ることはどれほど日々の生活に疲れ果てた精神を休ませてくれることだろうか。

だが、それだけ貴重な安らぎはおいそれとは手に入らない。下手をすれば、無神経ではた迷惑なただのガイジンになってしまうだろう。『徒然草』ではないが、少しのことにも先達はあらまほしきものだ。本書はその点からしても、旅の先達として心憎いまでの工夫がなされた書物である。元版『外人術』(一九九七)収録の文章すべてと、他から集められたエッセーは互いに補完しあって、これから旅に出ようという者たちを鼓舞し、導き、彼らに智慧と勇気を与えてくれるだろう。

と同時に、本書は切れ味のいい文明論の側面も持っている。たとえば、第七章「語学をどうしよう」は、いささか生硬に言えば、中学生から大学院生までの生徒や学生、教育に携わるすべての人びとにとって必読の文章ではあるまいか。「国際交流」「異文化理解」……今日、誰もが口にしながら、その実、実態がよくわからないこうした言葉を旗印のように振り回すことがどれほどいかがわしいか、少し冷静になればわかるはずだと私は昔から思っていたのだが、いまや私のような考え方をする語学教師は四面楚歌の状態に立たされているのが実情なのだ。周囲の熱狂にのぼせそうになったら、私はいつも佐藤亜紀の書く冷静で先を見通したこの種の文章を、薬を服用するように再読することにしている。

本書を読んでいると、いくつか思い出す本がある。

一冊は市河晴子『歐米の隅々』(一九三三)。佐藤亜紀の旅行記は、冷徹で皮肉な面を持ちつつ、しかも温かな眼差しと生彩に富んだ文章で綴られた晴子の紀行文と時空を超えて響きあう。ともに、非凡な観察者として一度だけの経験をまさに眼前に浮かび上がらせ、読者のうちに確かな記憶として残すだけではなくて、嘘のない率直さで読むものの心を打つ。観察力と率直さが同時に文章の美徳となる文筆家は決して多くない。その意味からすれば第六章「ミュンヘンの王宮」や第十一章の「パリのムスリム」、「無骨な男とチーズ」などは本書の白眉に数えられるだろう。

もう一冊はウンベルト・エーコ『ささやかな日記 その二(Il secondo diario minimo)』(一九九二)である。『外人術』が最初に刊行された一九九七年に仏訳(タイトルを直訳すると『鮭と一緒に旅行する方法』)が出た。それを私はパリからの飛行機の中で読んで、機中の憂さを大いに晴らした。飛行機のビジネスクラスの食事が不味かったらどうしたらいいかとか、五つ星ホテルのルームサービスがひどかったらどうするかとか、スモークサーモンを持っていた場合ホテルの部屋の小さな冷蔵庫にどうやって入れるかなど、もちろんその種の「方法」ばかりが書かれていたわけではないけれど、思わずくすりと笑ってしまうエピソード満載の傑作だった。言うまでもなく、かような書物に必要なのは巧まざるユーモアである。本書にもそれがふんだんに振りまかれている。愉しい読書は精神の薬である。私は元本『外人術』を五回は通読しているが、そのつど、忘憂薬(ネパンテス)を服用したかのごとく、日常のいやなことをきれいさっぱり忘れた。本書の効用のひとつに数えてもいい。

とくに私が気に入っている滋養効果抜群の章は本書の第十二章である。「無気力と停滞こそが夏場の旅行の醍醐味である」を私は何度読み返したことか。夏の間、ヴィシーというフランス中部の温泉町でひと月以上、ホームステイをする学生の引率のためだけに湯治客(キューリスト)用のホテルに滞在して無為の日々を過ごすという経験を五年くらい続けた者としては、本書に書かれているヨーロッパの温泉場の「水平生活」(トーマス・マン)の醍醐味が細部に至るまで想像できる。散歩やウインドウ・ショッピングや読書や食事だけが愉しみという生活は悪くない。勤勉と実利主義をモットーとしている向きには頽廃としか映らないかもしれないが、そもそも頽廃と優雅はつねに背中合わせである。そして、優雅を省みないところに真の文明が育たないことは歴史が実証済みであろう。

著者が「昔、飽く事なく愛読した」という詩人が歌った「旅へのいざない」のルフラン
 
彼処(かしこ)ではすべてがひたすら秩序と美

豪奢、静謐、そして逸楽。
 
は、佐藤亜紀がどうして彼女なりの「旅へのいざない」にほかならぬ『外人術』を書いたかをそっと示している。

私たち読者としてはすぐに旅支度をすることが叶わぬなら、せめてポケットに本書を忍ばせて今日からでも精神の旅を始めるよりほかない。
外人術―大蟻食の生活と意見 欧州指南編 / 佐藤 亜紀
外人術―大蟻食の生活と意見 欧州指南編
  • 著者:佐藤 亜紀
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(342ページ)
  • 発売日:2009-07-08
  • ISBN-10:4480426116
  • ISBN-13:978-4480426116
内容紹介:
外国で友達を作ろうと思うな、美術館になぞ行く必要はない、無気力と停滞こそが夏場の旅行の醍醐味である―エッセイの名手でもある著者が、自身の留学/旅行体験をもとに海外旅行の常識を覆す。単行本未収録エッセイ収録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
高遠 弘美の書評/解説/選評
ページトップへ