書評

『海からの贈物』(新潮社)

  • 2020/01/24
海からの贈物 / アン・モロウ・リンドバーグ
海からの贈物
  • 著者:アン・モロウ・リンドバーグ
  • 翻訳:吉田 健一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(131ページ)
  • 発売日:1967-07-24
  • ISBN-10:4102046011
  • ISBN-13:978-4102046012
内容紹介:
生活や仕事や、付き合いの釣り合い方に就いて――。現代に生きている人間ならば誰でも直面する諸問題に、真摯に対峙する。女はいつも自分をこぼしている。そして、子供、男、また社会を養うた… もっと読む
生活や仕事や、付き合いの釣り合い方に就いて――。
現代に生きている人間ならば誰でも直面する諸問題に、真摯に対峙する。

女はいつも自分をこぼしている。そして、子供、男、また社会を養うために与え続けるのが女の役目であるならば、女はどうすれば満たされるのだろうか。い心地よさそうに掌に納まり、美しい螺旋を描く、この小さなつめた貝が答えてくれる――。有名飛行家の妻として、そして自らも女性飛行家の草分けとして活躍した著者が、離島に滞在し、女の幸せについて考える。現代女性必読の書。

【目次】

浜辺
ほら貝
つめた貝
日の出貝
牡蠣
たこぶね
幾つかの貝
浜辺を振返って
訳者あとがき

本文より
我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果すものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いて来ないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見出すために一人になる必要があるので、その時に見出した自分というものが、女のいろいろな複雑な人間的な関係の、なくてはならない中心になるのである。(「つめた貝」)

アン・モロウ・リンドバーグ Lindberg, Anne Morrow(1906-2001)
アメリカ、ニュージャージー州生れ。スミスカレッジ卒。父親がメキシコ駐在大使を務めていた時に親善訪問した史上初の大西洋単独横断飛行の成功者チャールズ・リンドバーグと知り合い、結婚。自身も飛行機を操り、夫と共に飛行した時の記録やリンド・バーグ家の資料として貴重な日記・書簡集を発表している。

吉田健一(1912-1977)
ケンブリッジ大学中退。ポー、ヴァレリー等の翻訳の他、『英国の文学』『文学概論』『乞食王子』等の優れた批評、随筆で知られる。

煩雑な日常の見直しに

仕事が一段落すると何日かだらだら本を読んですごす。『海からの贈物』(新潮文庫)は薄い文庫本だが、いまの自分の生活を点検するにはまたとない良い本だ。

アン・モロウ・リンドバーグには夫と五人の子供がいる。ニューヨークの郊外に住んでいる。文筆家であり、家族の世話をし、市民としての義務を果たす。都会の主婦は忙しい。

新聞や雑誌やラジオは絶え間なく情報を送ってくるし、政治運動や慈善団体の呼びかけもある。それは望んだ通りの簡素な生活でなく、魂を死なせるような細切れの生活である。そこで彼女は海辺にやって来る。

初めのうちは、自分の疲れた体が凡(すべ)てで、航海に出て船のデッキ・チェアに腰を降ろした時と同様に、何もする気が起こらない。頭を働かしたり、予定通りに仕事をしたりする積りになる毎(ごと)に、海岸の原始的な律動の中に押戻される。寄せて来て砕ける波や、松林を吹き抜ける風や、鷺(さぎ)が砂丘の上をゆっくり羽搏(はばた)きしながら飛んで行くのが、都会や、時間表や、予定表の気違い染(じ)みたざわめきを消して、自分もその魔術に掛り、気抜けがして、ただそこに横になったままである。つまり、その自分が横になっている、海のために平らにされた浜辺と一つになるので、浜辺も同様にどこまでも拡(ひろ)がっている空っぽなものに変り、今日の波が昨日の跡の凡てを洗い去る。

うらやましいなあ。再び頭が目覚めるのは二週間目というのだもの。テレビやポケットベルやウォークマンやファックスに、もっと煩雑な生活を送らされる今日の私たち、一泊二日の温泉旅行しかできない私は悲しくなる。
(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆年は1993年頃)

生活が何かと気を散らさずにはおかない中で、どうすれば自分自身であることを失わずにいられるか。それがこの本の主題である。それを浜辺で練習するのだ。

不必要なものを捨てること。着るものも少し。食器も少し。選ぶことで頭を悩ますことがない。そして何も隠さずに話せる友達だけとつきあうこと。家の中を風と日光と松の木の匂いが通り抜けてゆく。

一人でいることも大事だ。孤独をおそれて、絶えまない音楽やお喋りで空間や時間を埋め、その騒音が止んでも、それに代わって聞こえてくる心の音楽がない生活を著者は厳しく批判する。一時間でも一日でも一週間でも、一人でいる練習が必要だ。

友情や恋愛、結婚、夫婦のことについても、明晰で示唆にとんでいる。

人と人との関係も、初めの歓喜の状態が同じ烈(はげ)しさをいつまでも失わずにいるということはあり得ない。それは成長して別な段階に入り、我々はそれを恐れずに、春の次に夏が来たのを喜んで迎えるべきである。

男と女が服従と支配でなく、所有と競争でなく、それぞれが成長する余地があり、お互いが相手の解放の手段になるという関係。そのためには二つの孤独がなければならないし、二人の間の無限の距離の自覚と、その距離を愛する心がまえがいる。相手を縛るのではなく、その全体を広い空を背景に眺めること……。

この本を読むと気が晴々する。周りの人間に対する「宥(ゆる)し」の感覚が生まれてくる。もちろんそれは自分が宥されることでもある。少なくとも、出たくない電話に出なくてもよいし、開けたくない封筒はそのまま捨てればいい。会合の誘いや余分な仕事を、一人でいたいから、と断ることもできるようになる。

【この書評が収録されている書籍】
深夜快読 / 森 まゆみ
深夜快読
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(269ページ)
  • 発売日:1998-05-01
  • ISBN-10:4480816046
  • ISBN-13:978-4480816047
内容紹介:
本の中の人物に憧れ、本を読んで世界を旅する。心弱く落ち込むときも、本のおかげで立ち直った…。家事が片付き、子どもたちが寝静まると、私の時間。至福の時を過ごした本の書評を編む。

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海からの贈物 / アン・モロウ・リンドバーグ
海からの贈物
  • 著者:アン・モロウ・リンドバーグ
  • 翻訳:吉田 健一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(131ページ)
  • 発売日:1967-07-24
  • ISBN-10:4102046011
  • ISBN-13:978-4102046012
内容紹介:
生活や仕事や、付き合いの釣り合い方に就いて――。現代に生きている人間ならば誰でも直面する諸問題に、真摯に対峙する。女はいつも自分をこぼしている。そして、子供、男、また社会を養うた… もっと読む
生活や仕事や、付き合いの釣り合い方に就いて――。
現代に生きている人間ならば誰でも直面する諸問題に、真摯に対峙する。

女はいつも自分をこぼしている。そして、子供、男、また社会を養うために与え続けるのが女の役目であるならば、女はどうすれば満たされるのだろうか。い心地よさそうに掌に納まり、美しい螺旋を描く、この小さなつめた貝が答えてくれる――。有名飛行家の妻として、そして自らも女性飛行家の草分けとして活躍した著者が、離島に滞在し、女の幸せについて考える。現代女性必読の書。

【目次】

浜辺
ほら貝
つめた貝
日の出貝
牡蠣
たこぶね
幾つかの貝
浜辺を振返って
訳者あとがき

本文より
我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果すものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時だけにしか湧いて来ないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見出すために一人になる必要があるので、その時に見出した自分というものが、女のいろいろな複雑な人間的な関係の、なくてはならない中心になるのである。(「つめた貝」)

アン・モロウ・リンドバーグ Lindberg, Anne Morrow(1906-2001)
アメリカ、ニュージャージー州生れ。スミスカレッジ卒。父親がメキシコ駐在大使を務めていた時に親善訪問した史上初の大西洋単独横断飛行の成功者チャールズ・リンドバーグと知り合い、結婚。自身も飛行機を操り、夫と共に飛行した時の記録やリンド・バーグ家の資料として貴重な日記・書簡集を発表している。

吉田健一(1912-1977)
ケンブリッジ大学中退。ポー、ヴァレリー等の翻訳の他、『英国の文学』『文学概論』『乞食王子』等の優れた批評、随筆で知られる。

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初出メディア

毎日夫人(終刊)

毎日夫人(終刊) 1993年~1996年

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