書評
『フランス小説の扉』(白水社)
やわらかい紐
翻訳を通じてフランス小説の魅力にとらわれ、その滋味を深々と身体に染み込ませてみずからもすぐれた研究者、翻訳家となったひとりの文学青年が、原典の美しさ、すばらしさを理解しつつ、なお先達の翻訳作品のなかに尽きせぬ富を再確認し、真率で熱のこもった謝辞を連ねる一種の文学的自伝をここにものした。フランス小説最盛期である十九世紀から、スタンダール、バルザック、ネルヴァル、モーパッサンを選んで「恋」の一語でそれらをつなぎ、氏の専門領域であるネルヴァルを介してプルースト、ブルトンを論じ、そこからソレルス、ヴィアン、ウェルベックへと読者を導いていく三部構成の見晴らしの良さと説得力。
ふたつの世紀にまたがる芸術を、これほどやわらかい紐で結んでくれた事例はかつてなかったし、とりわけ「今なお興奮を味わわせてくれる傑作の数々が、断固『反フランス的』なものとして書かれている」との指摘は、けだし名言と言って差しつかえないだろう。その名言を支えているのが、あちこちで輝きを放つ、鋭い批評の数々だ。冒頭に置かれたスタンダール『パルムの僧院』論だけでも、主人公ファブリスは「いわば考えることを免除された存在」であり、独房にいる彼のもとへ飛び込むクレリアの台詞(せりふ)は「可憐な恫喝(どうかつ)」であり、スタンダールの主要人物はみな「『聞き役』となる相手を必要としない強い孤独者」である、といった印象的な表現にこと欠かない。
著者の名にふさわしい「歓(よろこ)び」に満ちた言葉でつぎつぎに紹介される作品群をたどっていくうち、読者は、年表が添えられているわけでもないのに、フランス近代小説の流れを引用されている小説に即してすっきりと把握し、しかもそれらの作品にいつしか深い愛情を抱きはじめていることに気づかされる。野崎氏の「歓び」はまちがいなく伝染性であり、しかもそれに感染することじたいに、幸福の証があるのだ。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 2001年6月24日
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