書評
『テレビジョン』(集英社)
平泳ぎの心静かな官能
一九九〇年代初頭に小さくはないブームを巻き起こし、思想系の勢いに押されて沈滞気味だった現代フランス小説の紹介に復調のきっかけを与えたといってもいいジャン=フィリップ・トゥーサン待望の新作、『テレビジョン』が刊行された。原書では六年ぶり、邦訳としてはこれが五年ぶりになるのだが、さすがに待たされただけのことはあって、質量ともに充実した出来映えとなっている。語り手は、一人称の「ぼく」。ティツィアーノとその時代に関する研究書を執筆中の、すでに髪の薄くなりかけた四十歳の美術史家で、年次休暇と奨学金を得て、現在はベルリンに滞在している。その年の夏、仕事に専念すべく、イタリアヘヴァカンスに出かける家族と別れてひとりベルリンに残った彼は、テレビを見るのをやめた。なぜなら「テレビは流れであり、絶えず先へと逃げていくがゆえに思考に生まれ出る時間を与えないばかりか、精神とその対象とのあいだの富の交換を一切認めない」からだ。
ところが、せっかくテレビの誘惑を断ち切ったというのに、ヴァカンスに出るおなじアパートの住人から植物の世話を頼まれたり、プールへ泳ぎに出かけたり、公園で日光浴をして肌を焼いたり、友人の誘いで女子学生の操縦する飛行機に乗ったり、さまざまな雑音が彼の日常に入り込んでくる。いや、入り込んでくるのではなくて、じつは彼の方から、微妙な電波を捉えるテレビアンテナをめぐらし、厄介ごとに進んで身を投じているような気配なのだ。こうした受け身の戦略はすでに過去のトゥーサンの作品に共通して見られる特徴だが、冒頭近くで早々と表明された「ぼく」の生活信条を見れば、それがどれほど確信犯的な選択であるか一目瞭然だろう。
そもそも、ぼくは何もしていなかった。何もしないとは、うっかり何かをする、あるいは強制されて何かをするということがなく、習慣や怠惰にも流されないという意味である。(中略)何もしないことは、人がいささか安易に想像するのとは反対に、方法と規律、幅広い理解力と精神の集中を必要とする。
なにもしないための活力。語り手の譬喩(ひゆ)をかりれば、それは「だらだらと泳ぐ平泳ぎの心静かな官能」にも似ている。奇妙なことに、この前向きの受動性が、テレビの音を心地よい音楽に転換してしまう。物語の末尾、ベルリンにもどった妻のために、彼は寝室用の小型テレビを買い、久方ぶりに画像を目にして、スイッチを切る。得られた静寂は、妻の寝息と、大きく膨らんだ彼女のお腹でうごめく胎児の音を際だたせて、「何もしない」語り手の幸福を保証するのだ。「時間の流れの粗雑なパロディーを偽造する」テレビとのつきあいを、粗雑どころか繊細きわまりない時間の流れのなかで丁寧にたどってみせたトゥーサンの、これはじつに手のこんだテレビ讃歌かもしれない。
【この書評が収録されている書籍】
週刊文春 1998年3月5日
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