絵本の時間はおかあさんと
単行本の一巻目として、この連載「かーかん、はあい」の二年分をまとめた本のあとがきに、私はこんなことを書いた。いつか子どもは、自分で本を読み始める。そうなったらもう、「親子で一緒に本を読む時間」はなくなってしまう。親であることの楽しみは、いつも期間限定だ。
たぶん、長い目で見れば、その通りなのだろう。が、私はもう少し短い目(?)で見て、そう書いていた。つまり「自分で読めるようになる=親とは読まなくなる」というように。
息子はもう、子ども向きの本なら、童話でも漫画でも、すっかり自分の力で読めるようになった。けれど、「それとこれとは別」という顔をして、絵本を持ってくる。小さいころからの習慣で「絵本は、おかあさんと一緒に読むもの」と思っているらしい。
甘えたい、という気持ちも、ややあるようだ。そういう気分が強いときほど、幼いころに読んでいた絵本を持ち出してくる。とはいえ、それなりに人生経験を積んだ息子。感想が、以前とは違うのがおもしろい(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2009年)。
たとえば先日、『どうぞのいす』を久しぶりに読んだ。うさぎさんが椅子をつくり「どうぞのいす」という立て札とともに木の下に置いておく。「疲れたら、どなたでもどうぞ」という気持ちなのだろうが、ろばさんは、どんぐりのいっぱい入ったカゴを、そのいすに置いて昼寝を始めてしまった。
どんぐりのカゴが置いてあって「どうぞ」とあれば、誰でも勘違いするだろう。通りかかったくまさんは喜んで、どんぐりを全部食べてしまう。悪気はないけれど、大変なことだ。子どもは「えっ、大丈夫かな?」という顔をする。
だが、ここからが、いいところ。くまさんは、あとで通りかかる誰かのために、ハチミツを置いていくのだ。
ハチミツをなめたきつねさんが、今度はパンを置いていき、パンを食べたりすさんが栗を……。自分が受けた親切を、次の誰かへと思いやる心。バトンを渡すように、めぐってゆく善意。読んでいると大人の心も洗われる、まことにいい話である。
この話が大好きだった息子だが、今回は、こんなことを言う。
「ねえねえ、くまさんがハチミツ置いていかなかったら、どうなるかなあ」
「えっ、どうなったと思う?」
「うーん、次に来た人が、カゴを持ってっちゃって、その次の人が椅子を持ってっちゃって、最後は誰かが立て札を持っていくかも!」
おそろしい負の連鎖だ。そういえば『ねずみのよめいり』を久しぶりに読んだときも「ねずみより強いのは猫さんだよね。それで、猫さんのところへお願いにいったら、みんな食べられちゃうっていうのは、どう?」と、ヘンな結末をつけていた。
世の中、善意ばかりではないということを、知りはじめる年頃なのかもしれない。
知らぬまに脱皮する子か上履きのサイズ大きくなるたび思う
【この書評が収録されている書籍】