書評
『三浦老人昔話 - 岡本綺堂読物集一』(中央公論新社)
恥ずかしげもなく書いてしまうが、私は日本人の国民的教養となっている幕末の志士物語にかんしては、ほとんど無知だ。
司馬遼太郎小説をまったく読んだことがなく、NHK大河ドラマもほとんど見ることなく過ごして来たので、坂本龍馬とか勝海舟とか西郷隆盛とかいう人たちが、どういうふうに凄い人たちだったのか、あんまりよくは知らないのだった。
ところが最近、妙な偶然が重なって、にわかに幕末に興味を持つようになった。幕末といっても薩長土肥の官軍側ではない、負けた幕府側の人々のドラマを知りたくなったのだ。
岡本綺堂の作品とめぐり合ったのもその偶然の一つだ。「私は時代小説って山本周五郎以外ほとんど読んでいないなあ。昔、子供の頃にテレビで見ていた『半七捕物帳』(主演は中村竹弥)でも読んでみようか」と軽い気持で手に取ったのだが、思いがけずも(何しろ私、時代小説の世界に無知だから……)品格のある文章が気持よく、「好きだなあ、楽しませてくれるなあ、もっと早く読んでおけばよかった」とずんずん読み進んでいったら、『相馬の金さん』という歌舞伎の戯曲の中で、へらへらした御家人の金次郎に、理屈も何もないような、こんなタンカを切らせているので、「おやっ」と思った。
岡本綺堂は旧幕臣の子だったそうで、その気骨と言えば聞こえはいいが、敗者の無念や憤懣が炸裂したようなセリフである。「江戸っ子」を振り回すのが厭味のようだが……うーん、私はますます岡本綺堂が好きになった。
もしかして、明治以降の日本文学史には、官軍側と幕府側の二つの血の流れが文学的体質の違いにつながっていて、えんえんと、そして隠然と戊辰戦争が続いていたりするんじゃないだろうか。そんなことはないか。しかし、私が岡本綺堂に惹かれるのは、何よりも「江戸直系」という感じがするところだ。どうも私は負けた側の気質のほうに共感してしまう――ということだけは確かだ。
私が読んだのは、ちくま日本文学全集の中の岡本綺堂だが、ここにおさめられているのでは、『三浦老人昔話』というシリーズが私には一番面白かった。とくに、「鎧櫃(よろいびつ)の血」という話が凄い。
旗本の今宮六之助が御用道中で大坂へゆくことになる。この今宮という男はひととおりの武家気質の人物だが、たった一つ、食い物の好みがむずかしい。大坂は醤油がよくないと聞いて、鎧櫃の中に鎧の代わりにひそかに醤油樽を入れて運んで行こうとする。道中、その秘密を人足の一人がかぎつける。とたんにカッとなった今宮は、人足の首をはね、さらに家来の一人の首をはねる。あげくの果ては、自分のはねた二つの首の幻覚にさいなまれ、自分の腹を切って死んでしまう……という話である。
立派な思慮分別を持った男が、フッと何かに誘い込まれるように、まさに坂道をころがり落ちるように、こわいところに飛んで行ってしまう。小事の重なりがあるハズミでたちまち大事に一変する。そういうこわい場所、こわい瞬間を、岡本綺堂はさらさらとした、一見、とくに凝ったふうにも見えない言葉でみごとに描き出している。
「それが今宮さんの耳にはいると、急に顔の色が変わりました」なあんていう、何でもない一行がやけにこわい。「何心なく小腰をかがめて近寄ると、ぬく手も見せずというわけで、半蔵の首は玄関さきにころげ落ちました」なあんていう歌舞伎的な、簡単というか即物的な殺傷場面描写にもハッとする。
鎧、醤油、血という、暗い赤味のイメージの連鎖もみごとだと思う。言葉自体はあっさり好みなのに、それによって描き出すイメージは妙に濃い。
この『三浦老人昔話』や『青蛙堂鬼談』は怪談ということになるのだろうが、おどろおどろしい身振りではなく、「こんなこともあるかもしれないんだよ。あってもいいじゃないか。面白いじゃないか」というような淡々とした調子で語られているのが、オカルト嫌いの私でもすんなりと乗れるところだ。『半七捕物帳』シリーズの中に、「武士たるものが妖怪などを信ずべきものではない」と言って、子供たちが取りとめのない化け物話を始めると苦い顔をする叔父というのが出て来るが、岡本綺堂自身にも、たぶんそういう感覚があったのだと思う。
【この書評が収録されている書籍】
司馬遼太郎小説をまったく読んだことがなく、NHK大河ドラマもほとんど見ることなく過ごして来たので、坂本龍馬とか勝海舟とか西郷隆盛とかいう人たちが、どういうふうに凄い人たちだったのか、あんまりよくは知らないのだった。
ところが最近、妙な偶然が重なって、にわかに幕末に興味を持つようになった。幕末といっても薩長土肥の官軍側ではない、負けた幕府側の人々のドラマを知りたくなったのだ。
岡本綺堂の作品とめぐり合ったのもその偶然の一つだ。「私は時代小説って山本周五郎以外ほとんど読んでいないなあ。昔、子供の頃にテレビで見ていた『半七捕物帳』(主演は中村竹弥)でも読んでみようか」と軽い気持で手に取ったのだが、思いがけずも(何しろ私、時代小説の世界に無知だから……)品格のある文章が気持よく、「好きだなあ、楽しませてくれるなあ、もっと早く読んでおけばよかった」とずんずん読み進んでいったら、『相馬の金さん』という歌舞伎の戯曲の中で、へらへらした御家人の金次郎に、理屈も何もないような、こんなタンカを切らせているので、「おやっ」と思った。
「おれがこれから上野(彰義隊のこと)へ駈け込もうというのは、主人のためでもねえ、忠義のためでもねえ、この金さんの腹の虫が納まらねえからだ。田舎侍が錦切れ(官軍の印)を嵩(かさ)にきて、大手をふってお江戸のまん中へ乗込んで来やあがって、わが物顔にのさばり返っている。それじゃあ江戸っ子が納まらねえ……(略)」
「おれ達にはもうご主君なんていうものはねえと云うのに……。江戸っ子のおれたちが田舎者を相手に喧嘩をする。ただそれだけのことよ」(カッコ内は筆者注)
岡本綺堂は旧幕臣の子だったそうで、その気骨と言えば聞こえはいいが、敗者の無念や憤懣が炸裂したようなセリフである。「江戸っ子」を振り回すのが厭味のようだが……うーん、私はますます岡本綺堂が好きになった。
もしかして、明治以降の日本文学史には、官軍側と幕府側の二つの血の流れが文学的体質の違いにつながっていて、えんえんと、そして隠然と戊辰戦争が続いていたりするんじゃないだろうか。そんなことはないか。しかし、私が岡本綺堂に惹かれるのは、何よりも「江戸直系」という感じがするところだ。どうも私は負けた側の気質のほうに共感してしまう――ということだけは確かだ。
私が読んだのは、ちくま日本文学全集の中の岡本綺堂だが、ここにおさめられているのでは、『三浦老人昔話』というシリーズが私には一番面白かった。とくに、「鎧櫃(よろいびつ)の血」という話が凄い。
旗本の今宮六之助が御用道中で大坂へゆくことになる。この今宮という男はひととおりの武家気質の人物だが、たった一つ、食い物の好みがむずかしい。大坂は醤油がよくないと聞いて、鎧櫃の中に鎧の代わりにひそかに醤油樽を入れて運んで行こうとする。道中、その秘密を人足の一人がかぎつける。とたんにカッとなった今宮は、人足の首をはね、さらに家来の一人の首をはねる。あげくの果ては、自分のはねた二つの首の幻覚にさいなまれ、自分の腹を切って死んでしまう……という話である。
立派な思慮分別を持った男が、フッと何かに誘い込まれるように、まさに坂道をころがり落ちるように、こわいところに飛んで行ってしまう。小事の重なりがあるハズミでたちまち大事に一変する。そういうこわい場所、こわい瞬間を、岡本綺堂はさらさらとした、一見、とくに凝ったふうにも見えない言葉でみごとに描き出している。
「それが今宮さんの耳にはいると、急に顔の色が変わりました」なあんていう、何でもない一行がやけにこわい。「何心なく小腰をかがめて近寄ると、ぬく手も見せずというわけで、半蔵の首は玄関さきにころげ落ちました」なあんていう歌舞伎的な、簡単というか即物的な殺傷場面描写にもハッとする。
鎧、醤油、血という、暗い赤味のイメージの連鎖もみごとだと思う。言葉自体はあっさり好みなのに、それによって描き出すイメージは妙に濃い。
この『三浦老人昔話』や『青蛙堂鬼談』は怪談ということになるのだろうが、おどろおどろしい身振りではなく、「こんなこともあるかもしれないんだよ。あってもいいじゃないか。面白いじゃないか」というような淡々とした調子で語られているのが、オカルト嫌いの私でもすんなりと乗れるところだ。『半七捕物帳』シリーズの中に、「武士たるものが妖怪などを信ずべきものではない」と言って、子供たちが取りとめのない化け物話を始めると苦い顔をする叔父というのが出て来るが、岡本綺堂自身にも、たぶんそういう感覚があったのだと思う。
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

月刊Asahi(終刊) 1994年3月号
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