書評
『新・建築入門―思想と歴史』(筑摩書房)
薄手の新書でありながら、周到な構想のもとに書きあげられた、重量感のある一冊。著者の道案内で頁を繰っていくだけで、なんの予備知識のない読者でも、建築の概念や、その歴史、背景となる時代思潮について、コンパクトで体系的な知識をうることができる。
著者・隈研吾氏は、『グッドバイ・ポストモダン』という本もある、元気のよい若手建築家だ(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年)。現代建築が迷走の果てに行き詰まり、深刻な危機にあえいでいる現状を、彼はまず引き受ける。そして、この混迷を乗りこえるため、あえて建築の原点に立ち戻ってみようという戦略的な「足場固め」の狙いが、この一見するとじつに初歩的な入門書の背後に隠されているように思った。
著者による建築の定義は、まことに明快だ。建築とは、構築である。構築であるからには、主体が意志して行うことである。構築は物質的素材を必要とし、その内部に空間を実現する。
こうした見方は、建築の世界ではすでに言い古されたことなのかも知れない。しかし、著者の要約はじつに的を射ており、柔軟な思考の足腰を感じさせる。わかりきったようなことでも、それをわかるように表現するのは大切だと思う。
となれば、建築はシェルターではありえない。したがって洞窟は、建築ではない。それは構築でなく、分節されない内部空間があるのみで、形態がないからである。
建築は、メンヒル、ストーンサークルといった巨石を、垂直に直立させた新石器人とともに始まる。それは、重力に抗する構築、柱なのだ。その上に平石を渡構造、丸石を積み上げるアーチ構造も、この時期出現する。内部空間の誕生である。
そのあと、ギリシャ建築→ローマ建築→ゴシック建築→ルネサンス建築→……と展開する建築史の流れはたぶん、世界中の大学の建築学科で講義される標準的な内容なのだろう。著者もあえて、通説から極端に逸脱する見解をのべてはいないようである。しかし本書のよいところは、まず、そのバランスの良さ。思い切り材料やエピソードも切りつめて、ぎりぎりのエッセンスだけをのべていく。第二に、論理の筋が一本通っていること。自己矛盾に陥り、そこからつぎの展開を生み出す建築史のダイナミズムを、著者がしっかり押さえている。こうしたことは、執筆の動機がきちんと意識されているからこそ可能である。そう、本書はまことに構築的で、それ自身があたかも建築であるかのように感じられる。
ギリシャ建築は、神殿建築で、外部形態が整っていればよかった。内部が円柱だらけで狭くるしくても、問題とはならなかった。ローマ建築は、内部空間を人びとに開放した。アーチやドームを多用した建築は、外部形態と内部空間の統一を目指した。ゴシック建築は、アリストテレス~スコラ哲学の体系に照応する。全体は部分に分割され、さらに細かな階層に再分割される。その内部空間は、非物質的な、純粋な内部空間にどこまでも近づこうとした。
ゴシック建築の構造は、中世スコラ哲学に対応する。だから、ウィリアム・オッカムら唯名論者(普遍は実在しないと主張する人びと)のまき起こした普遍論争がやがてスコラ哲学を解体させたように、ゴシック建築も透視図法(新しい主観主義)の登場とともに終焉をむかえたのだ。こうしてミケランジェロが登場する。彼にとっては建築も彫刻と同じで、自分の主観のみを手がかりに物質に立ち向かう作業にほかならない。
ヨーロッパの建築史と思想史を、一体のものとして追えるのが、本書の嬉しい点である。たとえば《反宗教改革によって、再び生気をふきかえした普遍こそが、バロックを生み出した》、《啓蒙主義の建築的な対応物は新古典主義であった》、《構築物に対する外部の優位性と、カントが唱えた意志と物自体の切断とは、同義である》、《モダニズムとは……マルキシズムとフッサールの実存主義の間に宙づりにされた建築運動であった》、《モダニズム以降の建築は、保守化の途をころげおちていった。ポストモダニズムの建築とは、その保守化のひとつの到達点であった》といった明快な断定は、単なるキャッチフレーズでなく、なるほどと思わせる考察に裏打ちされている。建築もひとつの表現である以上、ヨーロッパ文化の総体を離れて理解できるわけがない。本書の簡潔な指摘から、読者は今後掘り下げるべき多くのヒントを受け取ることができる。
さて、最後に強いて難をあげれば、やはり本書も、“西欧”建築史でしかないこと。桂離宮の平面図が一枚紹介されるきりで、アジアやそれ以外の建築がほとんど触れられていない。イスラム建築は、多柱室の伝統を受け継いだと位置づけられ、《イスラム教の本質にひそむ非構築性が、この多柱空間を生み出した》とあるが、広々とした内部空間をもつモスクはどう考えればいいのだろう。
建築(建築という行為)は、自然の殺傷であると同時に、自然への捧げ物であった。それゆえ脱構築の思想(構築への批判)によって、建築は原初の問いにひき戻される。《構築にかわる建築の方法論というものが、果たして可能であるのか。……この問いがわれわれを押しつぶすところにまで来ている》とのべる著者だが、これをはねのけて前進することを期待しよう。
【この書評が収録されている書籍】
著者・隈研吾氏は、『グッドバイ・ポストモダン』という本もある、元気のよい若手建築家だ(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1995年)。現代建築が迷走の果てに行き詰まり、深刻な危機にあえいでいる現状を、彼はまず引き受ける。そして、この混迷を乗りこえるため、あえて建築の原点に立ち戻ってみようという戦略的な「足場固め」の狙いが、この一見するとじつに初歩的な入門書の背後に隠されているように思った。
著者による建築の定義は、まことに明快だ。建築とは、構築である。構築であるからには、主体が意志して行うことである。構築は物質的素材を必要とし、その内部に空間を実現する。
こうした見方は、建築の世界ではすでに言い古されたことなのかも知れない。しかし、著者の要約はじつに的を射ており、柔軟な思考の足腰を感じさせる。わかりきったようなことでも、それをわかるように表現するのは大切だと思う。
となれば、建築はシェルターではありえない。したがって洞窟は、建築ではない。それは構築でなく、分節されない内部空間があるのみで、形態がないからである。
建築は、メンヒル、ストーンサークルといった巨石を、垂直に直立させた新石器人とともに始まる。それは、重力に抗する構築、柱なのだ。その上に平石を渡構造、丸石を積み上げるアーチ構造も、この時期出現する。内部空間の誕生である。
そのあと、ギリシャ建築→ローマ建築→ゴシック建築→ルネサンス建築→……と展開する建築史の流れはたぶん、世界中の大学の建築学科で講義される標準的な内容なのだろう。著者もあえて、通説から極端に逸脱する見解をのべてはいないようである。しかし本書のよいところは、まず、そのバランスの良さ。思い切り材料やエピソードも切りつめて、ぎりぎりのエッセンスだけをのべていく。第二に、論理の筋が一本通っていること。自己矛盾に陥り、そこからつぎの展開を生み出す建築史のダイナミズムを、著者がしっかり押さえている。こうしたことは、執筆の動機がきちんと意識されているからこそ可能である。そう、本書はまことに構築的で、それ自身があたかも建築であるかのように感じられる。
ギリシャ建築は、神殿建築で、外部形態が整っていればよかった。内部が円柱だらけで狭くるしくても、問題とはならなかった。ローマ建築は、内部空間を人びとに開放した。アーチやドームを多用した建築は、外部形態と内部空間の統一を目指した。ゴシック建築は、アリストテレス~スコラ哲学の体系に照応する。全体は部分に分割され、さらに細かな階層に再分割される。その内部空間は、非物質的な、純粋な内部空間にどこまでも近づこうとした。
ゴシック建築の構造は、中世スコラ哲学に対応する。だから、ウィリアム・オッカムら唯名論者(普遍は実在しないと主張する人びと)のまき起こした普遍論争がやがてスコラ哲学を解体させたように、ゴシック建築も透視図法(新しい主観主義)の登場とともに終焉をむかえたのだ。こうしてミケランジェロが登場する。彼にとっては建築も彫刻と同じで、自分の主観のみを手がかりに物質に立ち向かう作業にほかならない。
ヨーロッパの建築史と思想史を、一体のものとして追えるのが、本書の嬉しい点である。たとえば《反宗教改革によって、再び生気をふきかえした普遍こそが、バロックを生み出した》、《啓蒙主義の建築的な対応物は新古典主義であった》、《構築物に対する外部の優位性と、カントが唱えた意志と物自体の切断とは、同義である》、《モダニズムとは……マルキシズムとフッサールの実存主義の間に宙づりにされた建築運動であった》、《モダニズム以降の建築は、保守化の途をころげおちていった。ポストモダニズムの建築とは、その保守化のひとつの到達点であった》といった明快な断定は、単なるキャッチフレーズでなく、なるほどと思わせる考察に裏打ちされている。建築もひとつの表現である以上、ヨーロッパ文化の総体を離れて理解できるわけがない。本書の簡潔な指摘から、読者は今後掘り下げるべき多くのヒントを受け取ることができる。
さて、最後に強いて難をあげれば、やはり本書も、“西欧”建築史でしかないこと。桂離宮の平面図が一枚紹介されるきりで、アジアやそれ以外の建築がほとんど触れられていない。イスラム建築は、多柱室の伝統を受け継いだと位置づけられ、《イスラム教の本質にひそむ非構築性が、この多柱空間を生み出した》とあるが、広々とした内部空間をもつモスクはどう考えればいいのだろう。
建築(建築という行為)は、自然の殺傷であると同時に、自然への捧げ物であった。それゆえ脱構築の思想(構築への批判)によって、建築は原初の問いにひき戻される。《構築にかわる建築の方法論というものが、果たして可能であるのか。……この問いがわれわれを押しつぶすところにまで来ている》とのべる著者だが、これをはねのけて前進することを期待しよう。
【この書評が収録されている書籍】