書評
『空席日誌』(毎日新聞社)
海鳴りの聞こえる貝殻のような散文集
やわらかな白の表紙に黒の活字でタイトルがつき、下に小さく「蜂飼耳」。謎の文書のようだ。めくると見返しの左はしから別丁扉が五ミリほどのぞいている。色はえんじ。えんじ虫からとったという深い紅色。さらにめくると、えんじ扉が右にきて、左は白のページに「目次」の二文字。よく見ると、えんじ虫の上に小さな「耳」と「日誌」がひそんでいる。中身と本のつくりが、これほどみごとにマッチしたケースも珍しい。駅で、立ったまま、ちくわを食べている女の人がいた
最初の一つの出だし。つづいて「雨の日で、カフェの空気も」「炎暑のある日」「ぐるぐると巡って、約束のカフェを」「波打ち際の突堤に」……。どれも見開き二ページの短かさで、まず十一篇、つづいて十一篇、さらに十一篇、しめくくりに十二篇、あいだに物語性をおびた「空席」A・B・Cがシオリのようにはさまっている。計四十数篇の小品にカタチがあるだけでなく、構成、さらに表現
の意志にカタチがある。
その一方で、日誌自体はとりとめのない記述のスタイルで通してある。かりに海にたとえると、渚(なぎさ)に流れついた拾い物を集めたぐあいであって、日常の波のまにまに漂ってくる。だからこそ日常なのだが、日ごとにちがっていて、漂着した小さな未知と出くわす。
どじょう掬(すく)いまんじゅうというものを、はじめて食した
山陰限定、ひょっとこの面を模した菓子。包みのセロファンをとると、そこに印刷された頭の手ぬぐいがぬげる。まさしく未知との遭遇であって、日常の謎だ。波のまにまの漂着物であれば、それ自体はガラス瓶やあき缶や電球や流木のかけらにすぎないが、いずれも変形をおびている。中身のない貝殻は透き通るように薄くて、気が遠くなるほど繊細な溝がきざまれていたりするものだが、まさにそのような漂着物的散文集だ。
空席Aにこんなくだりがある。
ふさわしい言葉が見当たらないときには手持ちの言葉を足して割る、という考え方もあるだろうけれど、このことに関しては、それをしてはいけない気もちが拭えない
空席Bでは、こうだった。
もうここにはもどれないのだ、という感じが、居たことのない時空に対してこんなにも深く生じるのは、なぜだろう
ユリ根の選別場で働いている「わたし」のひとり語りの空席Cによると、三種に分けるとき、大と中の境い目、中と小の境い目をどう見極めるかが問題である。自分で境界を決めるわけだが、「その瞬間的な逡巡(しゅんじゅん)が、えもいわれぬ恍惚(こうこつ)境をもたらすことに気づいたのはいつだったろう」。あれこれ迷ったりせず、いずれかに選別する。「この瞬間の、なにかに手を振って別れていく感じもたまらない」。ユリ根を「言葉」に置きかえると、「わたし」が作者にかさなってこないだろうか。
蜂飼耳は巧妙な書き手である。まるで言葉と言葉の影がかさなり合って、いっときもじっとしていない感じ。そのくせカタチも構成も据えつけられたまま、きれいに定まっている。かぎりなく動かないものとして、とめどなく動くものをつくり出した。見開き二ページの縮小があざやかである。純粋散文として、これ以上でもこれ以下でもいけない。ちいさくすることによって、より謎めいたり、より愛嬌(あいきょう)をおびたり、あるいはより哀(かな)しくなった。欠席者の机が空席のせいで、より強く存在を主張するように、小さな貝殻が耳元に海鳴りを伝えてくる。読み手を漂わせ、夢見させる。この若い詩人作家の類のない言語的造形力である。
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