書評

『自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―』(名古屋大学出版会)

  • 2020/06/23
自我の源泉―近代的アイデンティティの形成― / チャールズ・テイラー
自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―
  • 著者:チャールズ・テイラー
  • 翻訳:下川 潔,桜井 徹,田中 智彦
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(696ページ)
  • 発売日:2010-09-10
  • ISBN-10:4815806489
  • ISBN-13:978-4815806484
内容紹介:
〈善〉の存在論――。人間という主体についての近代的な理解、すなわち〈近代的アイデンティティ〉の複雑さと豊かさ、偉大さと危うさがいかに形成されてきたかを、隠れた道徳的立場とともに明らかにし、その真価を救出。共同体主義・多文化主義で知られるテイラーの主著、待望の邦訳。
2020年6月、チャールズ・テイラー畢生の大著『世俗の時代(A Secular Age)』の翻訳がついに出版されました。『自我の源泉』から『世俗の時代』まで、この二つの巨大な著作を中心にしてテイラーはどのような問題に取り組んできたのでしょうか。今回は、力作『テイラーのコミュニタリアニズム』でも知られる、中野剛充さんによる書評をご紹介します。

フーコー、ハーバーマスらと並ぶ知の巨人テイラーの哲学的考察

近年(二〇一二年現在)、ユルゲン・ハーバーマスと並んで、第二次大戦後世代のいわば「最後の巨人」の一人として西洋の哲学界でますます注目を集めているチャールズ・テイラーの後期の二大大作、『自我の源泉――近代的アイデンティティの形成』(原著は一九八九年出版)と、その続編にあたる『世俗の時代』(原著は二〇〇七年出版、未邦訳[※邦訳は二〇二〇年出版])のいわばイントロダクションともいうべき『近代――想像された社会の系譜』が本邦で続いて翻訳・出版された。この二つの文字通り巨大な著作――その圧倒的な情報量のみならず、その扱うテーマがあまりにも巨大である――を、文字数の限定された書評で「要約」することは評者の手に余るものであることはいうまでもないが、本書評ではとりあえず、まず、『自我の源泉』の二つのポイントについて概説し、そこから、『近代』をへて、『世俗の時代』に至る道程を、ごく簡潔に素描し、最後に、それについて私なりの考察を少し述べてみたい。

とはいえ、この二つの著作の最も中心的なテーマは、極めてシンプルである。それは『「(西欧)近代」とは何か?』という、いうまでもなく西洋社会思想史上で幾度となく繰り返し問われ続けてきた最も中心的なテーマの一つである。この「過去の三、四世紀の間に生じた近代の文化と社会における巨大な転換を包括的に理解し、何らかの仕方で焦点を合わせてこの変化を把握するという課題」にテイラーは彼なりの方法論で正面から取り組んでいるのである。テイラーはその自らの大胆な試みのいわばライバルとして、フーコー、ハーバーマス、マッキンタイアを挙げているが、(マッキンタイアはともかく)本邦でも既に膨大な研究の蓄積があるフーコーやハーバーマスらの研究のまさに「ライバル」にふさわしいチャールズ・テイラーの「近代理解」・「近代再定義」の試みのオリジナリティに触れることは、本邦における社会思想史研究それ自体をさらに豊かにするものであることは間違いない、と評者は考えている。

まず、『自我の源泉』から見てゆこう。一九八九年の出版当時から、西欧の哲学界で多くの注目を集めると同時に、極めて多くの論争の焦点にもなってきた著作である。『自我の源泉』は二つのパートに分かれている。パートIにあたる、第一部「アイデンティティと善」では、人間の自我(self)、アイデンティティと、善(good)の道徳存在論的な構成要件について述べられている。第二部から第五部にわたるパートIIでは、近代アイデンティティの形成に関する系譜学的物語が語られている。この大著を簡潔に要約するすべを評者はもたないゆえ(『自我の源泉』「訳者あとがき」において、訳者の極めて的確な要約と解説[が]なされている)、評者から見て、『自我の源泉』の際立ってユニークな点を二つ挙げるにとどめたい。

その一つは、人間のアイデンティティを「善」との関係で考察する点である。人間存在の自我・アイデンティティを「善」との関係で考察する、というテイラーの『自我の源泉』パートIでの試みは、『自我の源泉』出版当時の西洋哲学界でもいわば「異端的」な思考とみなされ、極めて多くの批判にさらされてきた。しかし、テイラーは、特にその批判の中でも最も著名かつ中心的であった、いわゆるリベラル‐コミュニタリアン論争にありがちな、「正・権利(right)か善か」という二項対立のみで議論しているのではない。彼の考察のユニークな点は、単に人間存在を「善」との関係で考察するというフレイムワークを採用した点のみならず、「なぜ西洋近代哲学では「善」の存在論的地位が隠蔽されてきたか」についての系譜学的考察もなされている点である。これはパートIのみならず、パートIIの歴史的物語の隠されたテーマの一つでもある。この点に関するテイラーの叙述は、単に「コミュニタリアン≒善、リベラル≒正・権利」という枠組みを超えたテイラーの存在論の鋭さが光っている、と評者は考えている。

パートIIのユニークなところは、なんといっても、「西欧近代」におけるロマン主義(的表現主義)のモメントの巨大な軌跡を、思想史的・系譜学的に「再発掘」した点にあるだろう。これは、晩年を莫大なロマン主義研究に費やした、テイラーの師、アイザイア・バーリンの影響が大きいものと思われる。テイラーはデカルトやロックらの啓蒙主義が生み出した「アトミズム」や「離脱した自己(disengaged self)」に対する「オルタナティブな近代」を(ニーチェやハイデッガーやその後継者と異なり)近代それ自体の「内部」に見出す。それは、テイラーが(ロマン主義的)表現主義と呼ぶものである。テイラーは、その原初をシャフツベリやハチソンらのスコットランド啓蒙に見、そしてその壮大な展開をルソー、ヘルダー、ゲーテ、ヘーゲルらのロマン主義的表現主義、に見出し、そしてその巨大な潮流の変容を近代のエピファニー芸術に至るまで、鮮やかに描き出す。テイラーは、ロマン主義的表現主義は、ラディカルな啓蒙主義による、自然と他者、そして人間の自我そのものを理性によって道具的に支配しようとする、画一化された理性中心主義に対抗する運動として生まれた、と主張する。そこでの自我は「固定化された観察主体」などではなく、自己の内なる感情を、自然や他者との関係において、――時には文学や美術といった形式をとって――「表現」において自我を実現してゆくものとされる。そして特にヘルダーが強調するように、そこでの自我は、そのような表現と自我の実現を通して、他者と異なるオリジナルなアイデンティティをもつ存在になりうるし、またなるべきだ、と考えるようになった、とテイラーは主張するのである。さらにテイラーは、この『自我の源泉』の入門書とでもいうべき、『〈ほんもの〉という倫理』においても述べられているように、近・現代人がもつこの「真正な(authenticity)自我への欲求(倫理)」は、常に破壊的な衝動をも内に秘めながら、新しい人間の自我と社会変革のあり方を開拓する拠点となってきた、と主張するのである(チャールズ・テイラー著、田中智彦訳『〈ほんもの〉という倫理――近代とその不安』(産業図書、二〇〇四年)、中野剛充著『テイラーのコミュニタリアニズム――自己・共同体・近代』(勁草書房、二〇〇七年))。ゆえに、社会思想史研究的観点から見れば、テイラーの著名な「アトミズム批判」の俎上に挙げられるデカルトやロックの解釈より、スコットランド啓蒙からルソー、カントを経て、ヘルダーやロマン主義に至る思想潮流に関する彼独自の解釈が光っている、と評者は考えている(やや奇妙なことに、『自我の源泉』においても『世俗の時代』においても、彼が大著『ヘーゲル』(一九七五年、未邦訳)で詳細に論じたヘーゲルとマルクスの思想についての言及が極端に少ない。評者にとっては特に、マルクスについての言及がほぼ皆無になった点に、やや不満を感じる)。

次に、『近代』について簡潔に紹介したい。テイラーは、『自我の源泉』から『世俗の時代』にかけて、論考の焦点を「自我」から「社会」に移動させる(テイラーは、『自我の源泉』においても、『世俗の時代』においても、マックス・ウェーバーの思想と方法論から強い影響を受けており、この点が彼を単なる哲学者のみならず社会学的・哲学者、あるいは社会哲学者ならしめている大きなポイントであると評者は考えている)。大作『世俗の時代』の中心的な論点はまさに西欧近代における「世俗性(宗教性)」の問題であるが、「近代」は「世俗の時代」の第一部「宗教改革の軌跡」と第二部「転換点」(その後、第三部「ノヴァ的影響」、第四部「世俗化の様々な物語」、第五部「信仰の条件」、と続く)のいわばプロトタイプである。とはいえ、訳者が「訳者あとがき」で適切にも指摘しているように、『近代』は単に『世俗の時代』の前半部分のラフ・スケッチというにとどまらず、『世俗の時代』ではあまり語られていないテイラー独自の政治思想史的語りがふんだんに盛り込まれている点において単なる『世俗の時代』のイントロダクションを超えた価値を持っている。テイラーは、論考の焦点を「自我」から「社会」に移行させる上で、「社会的想像力(social imaginary)」という新しい概念を導入する。「社会的想像力」とは、テイラーによれば、人間は、自らがある社会の中で生きている限り、必ず自らの社会のあり方を、何らかの形で想像して生き、そしてそれを他の社会のメンバーと共有することによって社会の中で共に生き、またそのような社会を構成するそのあり方であり、その形式をテイラーはベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」からヒントを得て、「社会的想像力」と呼ぶ。ゆえに『自我の源泉』と異なり、『近代』や『世俗の時代』の物語は、デカルトやロックといった哲学者の思想そのものよりも、社会史的・歴史学的物語の分析に重点が置かれるようになる。そこでは、中世の「魔術化された世界」が、「脱魔術化(disenchantment)」され、市場経済、公共圏、人民自治、といった、「近代」を構成する社会の基本構造が立ち上がっていくあり方が鮮やかに描かれている。

以上、近年続いて邦訳された『自我の源泉』と『近代』について、ごくごく簡単に論じてきた。この二冊が本邦で翻訳されたことによって、テイラーの巨大な「近代再定義の試み」に対し、一定のアプローチを行う条件が本邦でも整いつつある、といえるのではないだろうか。しかし、テイラーの著作への真摯なアプローチは、単に思想史的研究「のみ」にとどまることをゆるさない、と評者は考えている。テイラーの「近代」への問いは、直接われわれがまさに今生きている「現代」への問いに連結される。これは、特に、『自我の源泉』の第二五章――結論:近代の対立軸――および『世俗の時代』の第五部――信仰の条件――において顕著である。実はこの点が、テイラーが単に「思想史家」・「哲学研究者」のみならず、生ける「社会哲学者」として現代において「巨人」でありつづけている所以の一つである、と評者は考えている。「近代」に対する(自我と社会に対する)認識の変化は、おのずと現代に生きる私たちの(自己と社会に対する)認識の変化を促し、それは最終的には、(優れた哲学者の著作が常にそうであったように)現代に生きる我々の自我と社会の変革への「起爆剤」になりうるかもしれない。テイラーの思想の最もユニークなところは、やはりいうまでもなく卓越した社会学者であるハーバーマス同様、豊富な思想史の知識をもとに、「近代」の分析のみならず「現代(社会)」の「診断」に大胆に踏み込んでいく点にある、と評者は考えている。この極めて困難な時代において、テイラーの真摯で深遠な近代と現代に対する考察が、本邦における思想史的研究を活性化させることのみならず、われわれ自身の自我と社会のあり方を変革しうるラディカルな哲学的考察の新たな「起爆剤」の一つとなることを、評者は願ってやまない。

最後になったが、翻訳はどちらもこなれていて、読みやすい。特に、西洋の哲学のみならず、文学や美学的な側面を大量に盛り込んだ『自我の源泉』を厳密かつ丁寧に邦訳された訳者の方々には深い敬意を評したい。

[書き手]中野剛充(社会哲学)
自我の源泉―近代的アイデンティティの形成― / チャールズ・テイラー
自我の源泉―近代的アイデンティティの形成―
  • 著者:チャールズ・テイラー
  • 翻訳:下川 潔,桜井 徹,田中 智彦
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(696ページ)
  • 発売日:2010-09-10
  • ISBN-10:4815806489
  • ISBN-13:978-4815806484
内容紹介:
〈善〉の存在論――。人間という主体についての近代的な理解、すなわち〈近代的アイデンティティ〉の複雑さと豊かさ、偉大さと危うさがいかに形成されてきたかを、隠れた道徳的立場とともに明らかにし、その真価を救出。共同体主義・多文化主義で知られるテイラーの主著、待望の邦訳。

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社会思想史研究 第36号(2012年)

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