孤独の闇の底、光持つ鉛筆画
絵描きは作品にすべてを込める。言いたいことも、あるいは言いたくないことも画面に託して、あとは観る者に任せる。タイトルも含め、一枚の絵にどのような意味があり、なにを表現したかったのかを言葉で説明すると、逆に絵の魅力が失せてしまうからだ。一方で、心打たれた絵について、なぜそのような画面ができあがったのか、作者の具体的な体験として語ってもらえたらと夢想することもある。木下晋(すすむ)の鉛筆画を見ていると、時々そんなふうに思う。
幸い、自伝と銘打たれた本書によってその願いが叶えられた。「いのちを刻む」と題されているとおり、逸話ひとつひとつに十分な重さがある。しかし語り口は軽快で、過度な湿り気を帯びない。画家は、エピソードをひとつの角度からだけでなく、前後左右、ときには少し上から眺めている。どこからも焦点がきれいに合って話が立体的なのだ。この印象はサイズの大きな鉛筆画の画面とも合致している。
木下晋は一九四七年、空襲で焼け野原となった富山市に生まれた。父親はとび職で、兄と弟がいた。三歳のときに火事で家を失い、竹林管理の番小屋で極貧生活を送る。母親は兄を連れて家出を繰り返し、母の不在中に二歳下の弟が餓死したという。母のぬくもりもやさしさも、家庭の団らんも知らずに育ったことが、のちの制作や生活態度に影響を与えたと画家は語っている。
しかし、以後の木下の人生には、親代わりとなる人物や、画家への道を拓(ひら)き、境遇や身分に関係なく人間を見てくれる先達がつぎつぎに現れる。本書はある意味で、この厳しかった時代には望んでも望めないほどの、善意の人々の列伝とも言えるだろう。空腹に堪えきれずにパンを盗んで補導されたとき、親身になって話を聞き、本を貸してくれた小学校の校長。夏休みに昼食付きで彫刻をやらないかと誘ってくれた中学校の美術教師。彼女のもとで制作した彫刻を、富山大で美術を教えていた大瀧直平が評価し、少年少女向けの美術展で特選を獲得。大瀧からは師の木内克(きのうちよし)を、木内からは麻生三郎を紹介される。
高二のとき、ベニヤ板にクレヨンで父親ちがいの姉を描いた。その絵を見た麻生三郎は、「この絵だったら入選するから」と、自由美術協会展への応募を勧めた。結果、十七歳にして初入選を果たす。それが六三年のデビュー作≪起つ≫である。本書には口絵が十数枚掲載されているが、その最後に収められた、妻をモチーフとして描いた鉛筆画≪生命の営み≫と見比べると、途方もない深化の跡と同時に、まったく変わらない強靱なまなざしが両者を貫いていることに気づかされる。
それにしても、波瀾万丈という陳腐な言葉をつい口にしたくなる。父親の事故死。美術展入選。親族とのトラブル。経済的破綻による高校中退。看板描き。銀座の画廊での二人展。麻生三郎の推薦文。同郷人だとの理由で来廊を直談判したら、本当に来てくれた瀧口修造。駆け落ち同然の結婚と、生活のためにはじめたパン職人。天啓を得たヨーロッパ旅行。画商・洲之内徹との出会い。ニューヨークで知遇を得た荒川修作からの決定的なアドバイス。荒川は、悩みの種だった母親をこそ描けと進言したのだった。
連鎖は止まらない。そういう人たちを引き寄せ、懐に入っていっても拒まれない存在の核を、この画家は若い頃から持っていた。洲之内徹にゆかりのある新潟の石水亭で最後の瞽女(ごぜ)・小林ハルを知り、彼女の絵を描かせてもらうまでの粘り強いやりとりと、雪のなかを養護施設まで通い詰めて実現した創作の顚末を語る章は、元ハンセン病患者で詩人の桜井哲夫を語る頁(ページ)とともに、絵画作品とはべつの重みを感じさせずにおかない。
油彩から鉛筆画に移行する過渡期に出会った盲目の瞽女の語り言葉に、木下晋は豊かな色を感じたという。以後、鉛筆画は、色の壁を超え、闇よりも光を得るための方法となる。社会の外に閉め出されていた瞽女の、外からは悲惨と見える半生における前向きの諦念と、つねに自分を人の下に置こうとする視線に触れたことによって、画家のなかでなにかが変わる。
二〇〇五年に小林ハルが死去し、それと入れ替わるように桜井哲夫が人生に入って来る。群馬県吾妻郡草津町にある栗生(くりう)楽泉園という国立のハンセン病療養所をはじめて訪ねた日、画家は夕方の暗がりに「壁ぎわに背中をこちらに向けてじっと座っている男」を観て戦慄する。小林ハル、そして自身の母親とおなじ背中だったからだ。その背中の、「人間の尊厳そのものが剥ぎ取られ」た孤独の深さに呆然としつつ、呆然としなければ先に進めず、鉛筆を持つことも、闇の底に光を見出すこともできないと悟るのである。
人は自分の背中を見ることができない。この本を読むと、木下晋の彫像のような鉛筆画は、どれも自分の背中に張り付いたものの正体を見極めるための営為なのではないかと思えてくる。