書評

『騎士団長殺し』(新潮社)

  • 2017/07/10
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編 / 村上 春樹
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(512ページ)
  • 発売日:2017-02-24
  • ISBN-10:410353432X
  • ISBN-13:978-4103534327
内容紹介:
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。

「肖像画文学」に独自の位置

自己の闇と悪に対峙(たいじ)し、その深みへと降りていく通い路(パッセージ)を探す物語である。一方、親になることを巡る話でもある。『羊をめぐる冒険』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』などの代表作との濃厚な共通項があり、もはやセルフパロディや過去作のリユースという範疇(はんちゅう)を超え、全仕事を総括した二十一世紀版「春樹ワールドの語り直し」とも感じられる。

村上作品において魂の深淵(しんえん)、あるいは異世界への通路は様々な形で「発見」されてきたが、本作でそのとば口となるのは、一枚の絵画だ。そこから、主人公は「穴」へと導かれる。

ここ数作続いた三人称文体(へ)の冒険は収束したのだろうか、今回は「私」という一人称に回帰して安定感があるが、主人公が画家という設定は、村上の長編では初めてではないか。しかも、肖像画家である点がトリッキーに機能し、近世の騎士団長という極めて西欧的な画題の、日本の歴史的コンテクストへの“翻案”まで行われており、ブラウニング、ポー、ワイルド、クリスティと、欧米で連綿と描かれてきた「肖像画文学」の系譜に、独特の位置を獲得するだろう。ヨーロッパうけもするかもしれない。

妻に捨てられた「私」が日本画家の家で見つける「騎士団長殺し」と題された血なまぐさい絵。飛鳥時代の惨劇を描いたこの絵に、主人公はあるオペラの構図を見てとる。「私」はモデルを目の前に置かず、本人と面談して話を聞きだした後は、記憶のみで描く手法をとってきた。

「肖像画というのは、どれもある意味では自画像だ。自画像が例外なく肖像画であるように」

モデルの姿を一切見ず言葉を交わすだけで絵を描くという肖像画文学の傑作『シャルビューク夫人の肖像』からである(J・フォード、田中一江訳)。画家は己の像を他者の肖像画に描きこむものだ。あるいは己の「イデア」を。本作の「私」も自画像を描くことで、自分の奥底にある暗部や邪悪さと向き合う。それと同時に、描かれるモデルは描く者の奥に入りこみ、画家の目で自分を発見する。

「私」に自画像制作を依頼してくる隣人は「免色渉(めんしきわたる)」なる珍しい姓名で、色を免れると聞けば、どうしても先行作『色彩のない多崎つくる』を想起するが、この男もある意味、色のない人間だ。莫大(ばくだい)な資金力で、自分の足跡をネットなどから悉(ことごと)く消しているらしい。「まりえ」という少女に対する彼の態度には、村上が翻訳した『グレート・ギャツビー』の下絵が見え隠れする。また、「私」と十二歳で死んだ妹「小径(こみち)」(通路と類義)との関係は、同じく村上が新訳した『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公と妹フィービー(と弟アリー)のそれを転写したように見える。「私」は妹の死の精神的後遺症を抱え、そのシスターコンプレクスは後の妻にも、まりえにも投影され、小児性愛(ペドフィリア)の気配すら呈している。そしてもう一人の重要な女性は、暴力的な性交をした謎の女。彼女の近辺に、「二重メタファー」と呼ばれる「邪悪なる父」が存在し、父殺しの主題も反復される。

初期作から続く「根源的な悪」が大きな主題だが、社会的コミットメントを描いてきたここ二十年の作品に比べ、本作では、具現化された悪人との対決はない。とはいえ、「騎士団長殺し」の絵の背景には、ナチス支配と、南京入城がある。

第二部は東日本大震災の頃で終わっている。しかし、ちらりと言及されるカルト教団の背後には、意外な人物がいるのではないか。さらなる巨悪が潜んでいるのではないか。ところで、クンデラは「偉大な小説の主人公には子供がいない」と言ったが、『1Q84』で初めて「寿(ことほ)がれる妊娠」が描かれたとき、私は「次作では保育園探しに奔走するようなリアルな主人公を」と書いた。まさに保育園が初登場。第三部があるなら、子供という破壊者が予定調和を打ち破ることを期待する。
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編 / 村上 春樹
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
  • 著者:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(512ページ)
  • 発売日:2017-02-24
  • ISBN-10:410353432X
  • ISBN-13:978-4103534327
内容紹介:
その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの、山の上に住んでいた。夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた……それは孤独で静謐な日々であるはずだった。騎士団長が顕(あらわ)れるまでは。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年3月5日

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
鴻巣 友季子の書評/解説/選評
ページトップへ