書評

『五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック』(河出書房新社)

  • 2020/08/01
五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック / 吉見俊哉
五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック
  • 著者:吉見俊哉
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(368ページ)
  • 発売日:2020-04-25
  • ISBN-10:4309254055
  • ISBN-13:978-4309254050
内容紹介:
ポスト戦争の時代、東京オリンピックの舞台はいかに整えられたのか。社会学・文化研究の第一人者が、五輪というドラマを活写する。

スポーツに食い込む政治

最初に極めて個別的な場面を話題にするが、第三章で、人間が書いた遺書のなかでも、かつて飛び抜けて強い印象を私の心に刻み込んだ一節に、本書で再び巡り合った。そう、円谷幸吉のあの文章である。「美味(おい)しうございました」を幾つも重ねた上で、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」、そして「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれる。仲間にこのような痛切極まりない言葉を吐かせる人間社会とは、何と残酷なものか。

オリンピックとはスポーツの祭典である、あるいは、ことになっている、と付け加えるべきか。スポーツとは、と今更振りかぶる必要はないが、本来<dis−port>に淵源(えんげん)し、「離れたところへ運ぶ」が原義である。日常の大事・些事から「離れた」ところへ人を「運んでくれる」のがスポーツ、苦しいもの、辛いものではない。まして、人を死に追いやるような、犠牲を強いるものであるはずはない。しかし現実は。

この書は、結局、スポーツの祭典であるオリンピックが、人間社会の制度のなかに組み込まれたときに、どのように変質し、どのように人間性まで変える働きをしてきたか、その現実を丹念に掘り起こした労作である。特に人間社会の制度のなかでも、最も「非人間的」であるがゆえに、これほど「人間的」なものはない、と思われる政治が、どのようにオリンピックを頂点とするスポーツの世界に、食い込んできたかが、鮮やかに浮き彫りにされる。

例えば、第二章、今「聖火」のギリシャでの採火はともかく(そのこと自体も、日本では、全く別の文脈で捉えられる傾向があることにも、著者は目を向ける)、それをリレーで運ぶことまでが、どこか神聖化された習慣になってしまっているが、実はナチスの理念実現のために始まったことは、本来よく知られている。聖火リレーによって得られた土地の細かい情報が、後に電撃作戦を実行する際に、重要な助けになったのでもある。しかし、現実には政治と経済への慮(おもんぱか)りもあって、誰も異を唱えない一大事業と化してしまっている。特に日本では、沖縄復帰と絡めて、日の丸との繋がりを意識した政治的な配慮が、随所に現れた結果が、今の形になった点が指摘される。著者の筆は、強い批判を乗せるというよりは、むしろ淡々と、そうした歴史的な事実を、きちんとした文脈を整えながら、一つ一つ明らかにする。

第四章で、東京オリンピックでの経験を踏まえた上で開かれた一九八八年のソウル・オリンピックに関しては、私たちが余り知らされていない事情などにも踏み込みながらの分析も行われ、啓発されるところが大きい。日本では収まってしまっていた学生層が、彼の地ではまさしく政治の季節を迎えていたこととも相まって、極めて政治的な要素が介在したことが判る。

まあ、そんなことを言えば、入賞者のセレモニーで、国旗掲揚と国歌演奏とが必ず付随すること自体、すでにスポーツの理念からは、とんでもなく逸脱している。評子の個人的な感想で、奇矯に聞こえるかもしれないが、音楽の演奏家のコンクールには、国旗も国歌もまるで無縁である。メディアが「日本の」を振りかざして入賞者を報じることはあるが、そこまでにとどまっている。スポーツも、それで済ますことはできないか、と考えたりする。
五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック / 吉見俊哉
五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック
  • 著者:吉見俊哉
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(368ページ)
  • 発売日:2020-04-25
  • ISBN-10:4309254055
  • ISBN-13:978-4309254050
内容紹介:
ポスト戦争の時代、東京オリンピックの舞台はいかに整えられたのか。社会学・文化研究の第一人者が、五輪というドラマを活写する。

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毎日新聞

毎日新聞 2020年6月6日

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