「正義なす理由」に迫る意義
「理想」という語は、明治の初頭にプラトンの「イデア」の訳として造語され、「観念」という訳語とともに爆発的に広まった。「理想」は今日では青臭い夢想か、「理想の家庭」「理想的な体重」といった豊かな社会の個人的願望の表現としてしか受けとめられないが、この語がたどった歴史をひもとけば、日本近代史の一路はあぶり出せるはずだ。納富が本書で問うのは、プラトンの対話篇の頂とされる『ポリテイア』が『理想国』の表題で抄訳として出版され、続々と解説書が現れ、やがて戦後、それがアカデミズムの議論へと撤退してゆく過程とその意味である。
のちにマルクス主義哲学者となる古在由重と、戦後A級戦犯容疑者として公職追放されたのち総理大臣となった岸信介とが、ともに国家主義者・鹿子木員信のプラトン講義に大きな感銘を受けたと述懐していることは、この国における『ポリテイア』の受容のされ方を象徴する。この書は明治以来、設計主義的な社会改革理論、つまり社会主義の起源、ユートピア思想の原型、民主主義を超える哲人政治思想などとして、一方で国家主義の、他方で社会主義の系譜で解釈されてきた。プラトン思想に潜む全体主義については、戦後ヨーロッパではポパーらが激しく批判したが、日本ではそうした総括はほとんどなしに、非政治的解釈へと逆流する。
背景には、正しい共同体のあり方を説く『ポリテイア』が政治哲学の書か倫理学の書かという論争がある。納富はこの二者択一を排し、議論の骨格はポリスと魂の類比にあり、そこから「正義はなぜなされねばならないか」という問いに執拗に迫る点に、現代正義論を超えるこの書の意義があるとする。そしてこの問題を解かずして、倫理を外しても利益や快を追求する現代人の「貪欲さ」と市民としての「正しい生き方」との溝は埋まらない、と。