書評
『輝ける碧き空の下で〈第2部 上〉』(新潮社)
途方もない世界の年代記
短篇「埃と燈明」で、まだ訪れてはいないメキシコの田舎をデジャヴュのように描いた北杜夫が、ラテンアメリカを舞台にした壮大な長篇を書くことは、時間の問題だったのかもしれない。だが『輝ける碧き空の下で』を生み出すには、『楡家の人びと』という年代記を手掛けることが必要だった。彼の海外を舞台にした小説と年代記の集大成、それが今度の長篇である。アマゾンのゴム景気に翳りが見え出したころ、ついに見切りをつけた採取業者の渡辺伝吉が、溜め込んだ金貨を奪われてしまう、という書き出しは、ブエンディーア一族の年代記『百年の孤独』を始めとするガルシア=マルケスの一連の作品に似て、早くも物語の悲劇性を予感させる。そして最終部、太平洋戦争の勝敗をめぐる怪情報が乱れ飛ぶ中で、成功者の部類に属する第一回移民の佐久間四郎が帰国を焦り、詐欺に掛かるというエピソードは、冒頭のエピソードと見事に呼応することになった。伝吉もまた、様々な噂が囁かれる中で、帰国を決意したのだった。彼ら初期移民にとっての家、一族は、あくまでも日本であり日本国民だった。したがって、母国の敗戦は、楡家同様一つの家の崩壊劇が完結したことを意味する。作者が物語を第二部で終えた理由の一つはどうやらここにありそうだ。
それにしてもなんと楽しくそして切ない物語なのだろう。ブラジルという広大な空間を得た作者の想像力は、歴史という客観的事実の制約を受けながらも、ありえたかも知れない過去を再構築するべく思い切りはばたいている。そこでは善人も悪人も、日本にいるときとは桁違いのスケールを持っている。英雄が誕生してはそれに相応しい悲劇的な最期を遂げていく世界。日本的リアリティーが土台から覆されてしまう世界。北杜夫はこのラテンアメリカのスケールを描き出すことに成功した。
たとえば第一部からの主要人物でもある山口佐吉という大ボラ吹きの存在は、奥野健男氏の指摘するように、作品のトーンを決定する上で問題となるのだが、しかし作者はこのトリックスターのような「怪魔王」に明らかに人れ込んでいる。その性格は短篇「為助叔父」の主人公ときわめて似ており、作者の想像力を掻き立てる源泉となっているのだ。佐吉が、溺愛する末息子と交わす会話など、為助と甥の敦夫のそれを彷彿とさせる。だが佐吉のホラははるかに大きく、そのスケールこそがラテンアメリカの途方もなさの暗喩となっているのだ。バルガス=リョサの『緑の家』のアマゾンや『百年の孤独』の密林、バナナ園を作者は大いに参考にし、また現地でその途方もなさを身をもって体験したであろうことが佐吉を通して伝わってくるのである。
ただ残念なのは、各エピソードの後日譚がしばしば講談調に大雑把にまとめられてしまっていることである。もっともそのあたりは第三部で語られるはずだったのかもしれないが、一つの崩壊劇を終え、英雄たちの消えた後の世界は、もはや作者の少年の心を揺さぶらなかったようだ。
【下巻】
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