書評
『幕末史』(新潮社)
勝と西郷を軸に描く明快な新史観
幕末維新期は近代日本の出発点にあたるため、その歴史には多くの関心が寄せられ、これまでにも様々な形で取り上げられてきた。本書はこの歴史を「幕末史」として描くもので、快著『昭和史』(平凡社)の著者の待望の書である。書名がまず興味深い。徳川幕府の幕末のペリー来航から明治十一年までの二十五年間を扱っているのにもかかわらず、幕末維新史とはいわずして幕末史という。
それは著者が明治維新という言い方が嫌いなこともあるが、幕末史の流れが明治十年まで続いていたという認識によるもので、維新の新たな動きは明治十年以降になってやっと見えてくると考えている。著者は次のように指摘する。
明治になってどういう国家をつくったらいいかについて、皆がばらばらでした。スタートにおいては、天皇中心の神国日本の哲学に基づいて国をつくっていこうなどと考えた人はほとんどいませんでした。
こう語る著者が「維新」の語を嫌うのには明快な理由がある。東京に生まれ、父の故郷が越後の長岡藩にあった著者にとり、薩長史観によって記され、学ばされてきた近代日本の成立史、すなわち維新史などはとても我慢ならないからである。
そもそも当初は維新などとはいわれておらず、明治二年の頃(ころ)から中国の『詩経』にある維新から称されるようになったのであり、内実は全くそんなものではなく、薩長による暴力革命であって、江戸幕府を転覆させただけのことである。したがってその史観から解き放たれなければならないと説く。
アジテーターがいて、それに乗っかる多くの不満分子がいて、それらが京都の朝廷(貧乏公家)とうまく結びつき、一見、新しい世界が開けるような幻想のもと権力奪取の運動が広まっていった、それがこの時代の特色じゃないかと思います。
だがこんな形で自分の史観をはっきりさせ、好き嫌いを表に出してしまうと、通常ならば平板な叙述になる。坂本龍馬などの維新の英雄の評価も著しく低くなってしまい、そのままでは現代の政界の動きを見るように、味気なくなってしまう。
しかし薩長史観を拒否しても、幕府の体たらくを擁護するものでは決してなく、著者独自の感性と講談調の叙述によって、幕末史の動きや人物を縦横に切りまくって整理しているので、読者を飽きさせることがない。負け犬の遠吠(とおぼ)えにならないような十分な注意も払われている。
ペリー来航の嘉永六年(一八五三)の「幕末のいちばん長い日」から、十三章の明治十年(一八七七)の「西郷どん、城山に死す」までを描いて、むすびの章では参謀本部創設による統帥権独立の問題を語ってゆく。本書は歴史講座での講義が元になっており、読者はその話を江戸っ子の啖呵(たんか)で聞くうちに、あっという間に読了してしまうことであろう。
全体の構図としては、幕府の勝海舟と薩摩の西郷隆盛の二人が高く評価され、その二人がいかに登場して活躍するようになり、そしてやがて歴史の舞台から退場してゆくのかを描いているように見受けられる。
歴史とは人がつくるものとつくづく思います。人と人との信頼が何と大事なことか。勝と西郷、勝とパークス。それが戦乱と化しそうな歴史の流れを見事に押しとどめました。
つまり江戸を戦乱から救った二人を軸にして幕末史が語られており、ほかに評価されているのは、薩摩の藩主島津斉彬であろうか。その死について「歴史というのは大事な時に大事な人が死んでしまうというか、不思議というしかないのですが」と評していて、時にこうした歴史の偶然に言及した人物評を行なっているのも面白い。
多くの興味深いエピソードを織り込みながら、人物像の輪郭がメリハリのきいた形で、明快に描きわけられており、しかもこれまでの評価とは違った人物の一面も明らかにされていて、刺激的である。
ともすれば、幕末史においては、尊皇や攘夷(じょうい)・開国などの政治的主張と志士らの行動を追ってゆくと、そのうちにごちゃごちゃして何がなんだかわからなくなってしまうものだが、それらをあまり深追いせずにすっきり整理しているので、初めて幕末の歴史を知ろうとする読者や、これまでに興味を抱いていた読者にも頭の整理になる。
また多くの評価がわかれる事件についても整理して語っているが、あまり深入りはせず、自らの見解を記しても、ごたごたと自説を主張しない。どちらでもいいのだが、私はこう思うという形で述べてあっさり切り上げる。この辺りが歴史家のセンス抜群なところである。
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