選評

『悼む人』(文藝春秋)

  • 2017/07/13
悼む人〈上〉  / 天童 荒太
悼む人〈上〉
  • 著者:天童 荒太
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(359ページ)
  • 発売日:2011-05-10
  • ISBN-10:4167814013
  • ISBN-13:978-4167814014
内容紹介:
不慮の死を遂げた人々を"悼む"ため、全国を放浪する坂築静人。静人の行為に疑問を抱き、彼の身辺を調べ始める雑誌記者・蒔野。末期がんに冒された静人の母・巡子。そして、自らが手にかけた夫の亡霊に取りつかれた女・倖世。静人と彼を巡る人々が織りなす生と死、愛と僧しみ、罪と許しのドラマ。第140回直木賞受賞作。

直木三十五賞(第140回)

受賞作=天童荒太「悼む人」、山本兼一「利休にたずねよ」/他の候補作=恩田陸「きのうの世界」、北重人「汐のなごり」、葉室麟「いのちなりけり」、道尾秀介「カラスの親指」/他の選考委員=浅田次郎、阿刀田高、五木寛之、北方謙三、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、宮部みゆき、渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇九年三月号

意中の三作

桜の精のように芳(かぐわ)しいひとが、夫となるべき武辺者に訊く、「これこそご自身の心だと思われる和歌を教えていただきたい。これぞとお思いの和歌を思い出されるまで寝所はともにいたしますまい」と。こうしてその武辺者は十七年の歳月をかけて、わが心の歌を探し求めることになる。これが葉室麟氏の『いのちなりけり』の、洒落(しゃれ)た主筋である。けれども、始まりから固有名詞群と脇筋(わきすじ)群が一気に出しゃばってくるので、主筋がたえず横滑りを起こし、時の前後さえ判別しがたくなる。とても読みにくい。全巻の締めくくりとなる決闘の場が両国橋に設定されているのにも違和感がある。この橋の東西の橋詰には番所がある。夜間には橋の中央に番屋まで出る。橋の下を諸大名たちが舟で通るからきびしく見張っているのである。いかにしたたかな武芸者でも、欄干のかげに隠しておいた槍で主人公を逆襲するのは、むずかしいかもしれない。

北重人氏の『汐のなごり』は、北日本の湊、水潟(みなかた)を舞台にした連作集。よく調べられており、誠実で丹精な筆の運びも好ましく、とりわけ、己の身を削っても子の命を養おうという母を書いた「海羽山」は、佳品である。しかしながら、各篇とも、物語の原動力がすべて〈回想〉なので、話の仕立てがよく似ている。そのせいか、読み手側の感銘の度合いも次第に月並みなものに落ちて行き、やや厚塗りの自然描写もやがて読み手の足手まといになって行く。各篇の人物たちに横の連鎖がないのも惜しまれる。人物たちが強弱遠近さまざまに繋がっていれば、おもしろい「都市物語」になっていたかもしれない。

『きのうの世界』の作者、恩田陸氏はすでに一家を立てた書き手である。意欲的な文学実験(ここでは二人称の採用)、なにかが近づいてくる気配を書くときの運びの巧みさ、多重視点のおもしろさ、背景がいきなり前景に迫(せ)り出してくるときにみなぎる力感など、多くの読者が恩田ワールドを楽しんでいる。したがって、いまさら不備を論じても仕方がないが、なによりも、舞台になっているM町が浮島の上に築かれていたという世界的なニュースが、後半ではただの地方ニュースに成り下がってしまったように見えて、これは風呂敷の広げすぎのようだ。マッチポンプ的大屋台崩し風ファンタジー小説……もちろんこれはこれですてきにおもしろいのだけれども。

このような進み行きから、評者は推(お)すべき作品を以下の三作品に定めた。

山本兼一氏の『利休にたずねよ』は、臨済禅が利休に与えた影響について書かれていないことを(大徳寺は出てくるけれども)不満に思ったが、しかし、時間を巧妙に逆行させながらなにもかも、高麗からの流浪の麗人と、彼女の持っていた緑釉の香合に、焦点を絞ってみせた、作者の力業に喝采を送る。常にたしかで着実な文章もこの力業をがっちりと支えている。おしまいの、利休の妻が香合を石灯籠に叩きつけて砕くところは、この長編を締めくくるにふさわしい名場面だった。

天童荒太氏の『悼む人』は、前半はすばらしい。しかし後半はやや落ちるかもしれない。その理由は、悼む人を追う週刊誌の特派記者が、前半では卑しく活躍するのに、後半ではまったく改心してしまったところにある。みんないい人になって、構造(つくり)に微かなひびが入った。また、悼む人が悼まれる人(つまり殺される人)になったら、さぞやすごかったろう、悼む人はキリストそのものになったのにと思ったが、これは評者の勝手な注文である。……いずれにもせよ、作者は、名もなき死者を悼む人を設定して、人生と死と愛という人間の三大難問に正面から挑戦した。後半にやや結晶度が落ちるとはいえ、ドストエフスキーも顔負けの、この度胸のある文学的冒険に脱帽しよう。

道尾秀介氏の『カラスの親指』は、結末に大どんでん返しを仕組んだ、鮮やかな快作である。これからお読みになる方たちのために、内容に立ち入ることは避けるが、一に人物造型のたしかさ面白さ、二に伏線の仕込み方の誠実さ、三に物語の運びの精密さと意外さ、四に社会の機能を抉りだすときの鋭さ、五に質のいい笑いを創り出すときの冴えにおいて、出色の小説だった。評者も、すっかり騙された口の一人である。

【この選評が収録されている書籍】
井上ひさし全選評 / 井上 ひさし
井上ひさし全選評
  • 著者:井上 ひさし
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(821ページ)
  • 発売日:2010-02-01
  • ISBN-10:4560080380
  • ISBN-13:978-4560080382
内容紹介:
2009年までの36年間、延べ370余にわたる選考会に出席。白熱の全選評が浮き彫りにする、文学・演劇の新たな成果。

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悼む人〈上〉  / 天童 荒太
悼む人〈上〉
  • 著者:天童 荒太
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(359ページ)
  • 発売日:2011-05-10
  • ISBN-10:4167814013
  • ISBN-13:978-4167814014
内容紹介:
不慮の死を遂げた人々を"悼む"ため、全国を放浪する坂築静人。静人の行為に疑問を抱き、彼の身辺を調べ始める雑誌記者・蒔野。末期がんに冒された静人の母・巡子。そして、自らが手にかけた夫の亡霊に取りつかれた女・倖世。静人と彼を巡る人々が織りなす生と死、愛と僧しみ、罪と許しのドラマ。第140回直木賞受賞作。

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初出メディア

オール讀物

オール讀物 2009年3月

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