解説
『人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ』(筑摩書房)
ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(87年)という映画の中にこんな詩が出て来る。
この映画の脚本作りに協力したペーター・ハントケ(「現代ドイツ文学の旗手」だそうだ。恥ずかしながら私は知らなかった)が書いた長い「わらべうた」の中の一部である。
哲学とは何か、哲学者とはどういう存在か――。それはこの十数行の中ですべて言い尽くされていると思う。この中に出て来るいくつかの?マーク。永遠に正解にはたどり着けないかもしれない疑問の数かず。
とりわけおそろしいのは「時の始まりは いつ」「宇宙の果ては どこ」というところだ。ちょっと考えただけで、私の頭の中はグラグラする。目まいがする。胸がドキドキする。脚がすくむ。
どうも体によくない感じがする。考えることを、体が拒んでいる。精神の危険ゾーンに近づいたことを、体が察知しているのだ。で、私はサッサと引き返す。臆病者である。
哲学者とは、この危険ゾーンの中へ論理の力でがしがしと踏み込んで行く勇敢な人たちのことだろう。無益と知りつつ、この人間にとっての最大最強最古の疑問に関して考え続けずにはいられない、因果にして奇特な人たちのことだろう。
いつの頃からか(二十代の頃からだろうか)私は哲学者に対して特別の憧れを抱くようになった。哲学をすること、哲学を生きること、これこそ人間にとって最高の仕事(職業とは必ずしも一致しない)ではないだろうか。
そんなふうにたいせつに思っているのにもかかわらず、私は哲学書はほとんど読んでいない。また、著述業という仕事の中で哲学的なことはほとんど書いていない。
照れくさいのだ。「生」「死」「存在」「意識」「時間」「宇宙」……といった言葉がさかんに出て来る文章は、読むのも書くのも照れくさくてたまらないのだ。ましてや口に出してしゃべることはまったくできない。
いったいどこがどう照れくさいのか自分でもよくわからない。説明できない。ペーター・ハントケ的な疑問は私にとっても根本的な疑問なのだが……ああ、ほんとうになぜなんだろう……そしらぬ顔をしていたいのだ。自分の内側だけのことにしていたいのだ。外側では知らんふりしたり茶化したりしていたいのだ。
哲学者に憧れながら、私は自分の死まで冗談のタネにした江戸の遊び人たち、例えば、「この世をば/どりゃお暇に/線香と/ともについには/灰左様なら」と辞世の狂歌を詠んだ十返舎一九や、「今までは/さまざまな事/してみたが/死んでみるのは/これが初めて」と詠んだ幕末の奇人・淡島椿岳に非常な親しみと共感を抱かずにはいられないのだ。
自分の死まで茶化すというのは悪趣味とまでは言わないが、馬鹿な趣味であることだけは確かだろう、私はなぜかその馬鹿な趣味が好きでたまらないのだ。私はここまで徹底してフザケることはできないが、コラムニストという仕事の中で、どこかちょっとずつ、すきあらばフザケたいという気持を抑えがたい。「時間の始まり」や「宇宙の果て」に関してよりも俗事に関してああだこうだと言っているほうが、何だか、恥ずかしさが少なくてすむような気がするのだ。「生」「死」「存在」「意識」「時間」「宇宙」……といった言葉の持つ厳粛さ、重々しさに耐えられないのかもしれない。少しばかり意地を張って言うなら、「言うだけ野暮」という気持もある。いや、たんに私が考えなしの軽薄者だということか。
――なあんて。ついつい自分の話ばかりだらだらと書いてしまった。要するに、私は哲学および哲学者に対する私のいくぶん屈折した気持について書いておきたかったのだ。なぜなら、私がこの『人生を〈半分〉降りる』(新潮OH!文庫)を読んでいて、しばしば考えさせられたのが、「私はなぜ哲学者になれないのか」ということだったからだ。
この『人生を〈半分〉降りる』という本は、「あなたはまもなく死んでしまう」と題された章に始まり、「そして、あなたはまもなく死んでしまう」という章で終わる。全体のこの構成自体からして、「ああ、哲学者だなあ」と思う。そして私の心はのっけから分裂する。「言うだけ野暮」という江戸の遊び人的な私と、「でも、実は私だって一番気にかけていることなのよね」というペーター・ハントケ的な私と。
読み進んで行くうちに、不思議な気分になって来た。私は著者の言う「人生を〈半分〉降りる」=「半隠遁」ということが、あまりにもすんなりわかってしまうのだ。「死」から考えを積みあげて行く哲学者である著者と、「生」という枠の中で書き散らしているコラムニストの私が、現世での生き方に関してはほとんど同じ所を志向しているのだ。
実際、私の生活は何年も前から(もしかして一貫して?)「半隠遁」と形容してもいいようなものである。文章を書いて生計を立てているが、できることはそれだけで、たまに雑誌で対談の仕事はするが、講演やイベント出演やTV・ラジオ出演や各種役職(選考委員とか審議委員とか)はいっさいパスして暮らしている。パーティに出るのは年にせいぜい一、二回。年賀状はもう何年も出していない。それはひとえにものぐさのせいである。
私は自分自身の「半隠遁」をいくぶんか後ろめたく情なく思っている。経済面で老後が大いに心配である。他の人が何の苦もなくできることが私にはできない。何でもかんでも厭だ厭だと逃げ回っているのは大人気(おとなげ)ないんじゃないかと悩んでしまう。
だから、著者のように積極的な「半隠遁」の提唱があると、ついでに私のものぐさゆえの「半隠遁」も擁護されたかのようでホッとするのだ.
ものぐさゆえの半隠遁というのはほんとうのことである。べつだん謙虚ぶっているわけでもないし、韜晦(とうかい)しているわけでもない。しかし、よくよく自分の心の奥を点検してみれば、そこには人生観(というより世間観か)にもとついた若干の主義主張もあるような気がする。
私もニーチェ同様、「自分の時間」を奪われるのが厭で厭でたまらないのだ。
ヴァレリー同様、「書く」ということは基本的にはしたないことのように思われ、「書く」こと以外のことで自己顕示する気力が湧いて来ないのだ。
オルテガ同様、「凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとする」この超デモクラシーの世の中に辟易していて、そういう世の中との接点はできるだけ小さくしておきたいものと思ってしまうのだ……(と書いているうちに、わくわくして来る。ニーチェやヴァレリーやオルテガといった大人たちと自分とを並べて語ってしまう、この快楽)。
もう一つ、私が「ああ、哲学者だなあ」と思ったのは、「繊細な精神」「批判精神」「懐疑精神」「自己中心主義」「世間と妥協しないこと」という具合に、今の世の中では・突出して誤解されやすく悪用されやすいと思われる言葉を、著者はひるむことなく使っていることである。
「繊細な精神」という言葉一つを取ってみても、世の中にはとんでもない誤解をする人が多い。いや、むしろそちらのほうが多数派である。自分のことを繊細と思い込んでいる粗雑な精神の持ち主は驚く程、多い。
こういう抽象的な言葉を使って自分の言いたいことをできるだけ正確に多くの人びとに伝えるのは至難の業(わざ)だ。ただの「青」ではなく「群青(ぐんじょう)色」、ただのピンクではなく「サーモン・ピンク」、そういう微妙なニュアンスの違いを、いろいろな角度から、言葉を尽くして、浮かびあがらせつつ、論を進めて行かなければならないのだ。
私なぞは例の「言うだけ野暮」病が出て、こういう抽象的な言葉を使うことはサッサと諦めてしまうのだが、著者は違う。正面にガンと押し立てて、がしがしと進んで行くのである。私は狡い。著者が歩いて行った道をあとでたどって、お気楽な顔をして「そうだそうだ、私もそういうことが言いたかったんだ」と喜んでいるのだ。
冒頭に私はペーター・ハントケの詩を引用し、哲学者への憧れを語った。それは世界の根本的謎に対する姿勢の問題であって、必ずしも職業とは結びつかないとも書いた。
私は論理性の乏しさゆえか、それとも一種のニヒリズムゆえか、あるいは臆病さから来る軽薄ゆえか、哲学者にはなれなかったし、これからもなれそうもない。
しかし、この本を読んでいるうちに、もしかして私は自分が思っている以上に哲学的に生きているのかもしれないという気がして来たのだ。私の悩み、迷い、苦しみのいくつかを、「それは哲学的と名付けていいんだよ」と著者に言われているような気がした。
きっと、読者の多くもそう感じるに違いない。
【この解説が収録されている書籍】
この映画の脚本作りに協力したペーター・ハントケ(「現代ドイツ文学の旗手」だそうだ。恥ずかしながら私は知らなかった)が書いた長い「わらべうた」の中の一部である。
子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で 君でない?
なぜ 僕はここにいて、そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢?
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻?
悪があるって ほんと?
悪い人がいるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
いったい僕は 何になる?
哲学とは何か、哲学者とはどういう存在か――。それはこの十数行の中ですべて言い尽くされていると思う。この中に出て来るいくつかの?マーク。永遠に正解にはたどり着けないかもしれない疑問の数かず。
とりわけおそろしいのは「時の始まりは いつ」「宇宙の果ては どこ」というところだ。ちょっと考えただけで、私の頭の中はグラグラする。目まいがする。胸がドキドキする。脚がすくむ。
どうも体によくない感じがする。考えることを、体が拒んでいる。精神の危険ゾーンに近づいたことを、体が察知しているのだ。で、私はサッサと引き返す。臆病者である。
哲学者とは、この危険ゾーンの中へ論理の力でがしがしと踏み込んで行く勇敢な人たちのことだろう。無益と知りつつ、この人間にとっての最大最強最古の疑問に関して考え続けずにはいられない、因果にして奇特な人たちのことだろう。
いつの頃からか(二十代の頃からだろうか)私は哲学者に対して特別の憧れを抱くようになった。哲学をすること、哲学を生きること、これこそ人間にとって最高の仕事(職業とは必ずしも一致しない)ではないだろうか。
そんなふうにたいせつに思っているのにもかかわらず、私は哲学書はほとんど読んでいない。また、著述業という仕事の中で哲学的なことはほとんど書いていない。
照れくさいのだ。「生」「死」「存在」「意識」「時間」「宇宙」……といった言葉がさかんに出て来る文章は、読むのも書くのも照れくさくてたまらないのだ。ましてや口に出してしゃべることはまったくできない。
いったいどこがどう照れくさいのか自分でもよくわからない。説明できない。ペーター・ハントケ的な疑問は私にとっても根本的な疑問なのだが……ああ、ほんとうになぜなんだろう……そしらぬ顔をしていたいのだ。自分の内側だけのことにしていたいのだ。外側では知らんふりしたり茶化したりしていたいのだ。
哲学者に憧れながら、私は自分の死まで冗談のタネにした江戸の遊び人たち、例えば、「この世をば/どりゃお暇に/線香と/ともについには/灰左様なら」と辞世の狂歌を詠んだ十返舎一九や、「今までは/さまざまな事/してみたが/死んでみるのは/これが初めて」と詠んだ幕末の奇人・淡島椿岳に非常な親しみと共感を抱かずにはいられないのだ。
自分の死まで茶化すというのは悪趣味とまでは言わないが、馬鹿な趣味であることだけは確かだろう、私はなぜかその馬鹿な趣味が好きでたまらないのだ。私はここまで徹底してフザケることはできないが、コラムニストという仕事の中で、どこかちょっとずつ、すきあらばフザケたいという気持を抑えがたい。「時間の始まり」や「宇宙の果て」に関してよりも俗事に関してああだこうだと言っているほうが、何だか、恥ずかしさが少なくてすむような気がするのだ。「生」「死」「存在」「意識」「時間」「宇宙」……といった言葉の持つ厳粛さ、重々しさに耐えられないのかもしれない。少しばかり意地を張って言うなら、「言うだけ野暮」という気持もある。いや、たんに私が考えなしの軽薄者だということか。
――なあんて。ついつい自分の話ばかりだらだらと書いてしまった。要するに、私は哲学および哲学者に対する私のいくぶん屈折した気持について書いておきたかったのだ。なぜなら、私がこの『人生を〈半分〉降りる』(新潮OH!文庫)を読んでいて、しばしば考えさせられたのが、「私はなぜ哲学者になれないのか」ということだったからだ。
この『人生を〈半分〉降りる』という本は、「あなたはまもなく死んでしまう」と題された章に始まり、「そして、あなたはまもなく死んでしまう」という章で終わる。全体のこの構成自体からして、「ああ、哲学者だなあ」と思う。そして私の心はのっけから分裂する。「言うだけ野暮」という江戸の遊び人的な私と、「でも、実は私だって一番気にかけていることなのよね」というペーター・ハントケ的な私と。
読み進んで行くうちに、不思議な気分になって来た。私は著者の言う「人生を〈半分〉降りる」=「半隠遁」ということが、あまりにもすんなりわかってしまうのだ。「死」から考えを積みあげて行く哲学者である著者と、「生」という枠の中で書き散らしているコラムニストの私が、現世での生き方に関してはほとんど同じ所を志向しているのだ。
実際、私の生活は何年も前から(もしかして一貫して?)「半隠遁」と形容してもいいようなものである。文章を書いて生計を立てているが、できることはそれだけで、たまに雑誌で対談の仕事はするが、講演やイベント出演やTV・ラジオ出演や各種役職(選考委員とか審議委員とか)はいっさいパスして暮らしている。パーティに出るのは年にせいぜい一、二回。年賀状はもう何年も出していない。それはひとえにものぐさのせいである。
私は自分自身の「半隠遁」をいくぶんか後ろめたく情なく思っている。経済面で老後が大いに心配である。他の人が何の苦もなくできることが私にはできない。何でもかんでも厭だ厭だと逃げ回っているのは大人気(おとなげ)ないんじゃないかと悩んでしまう。
だから、著者のように積極的な「半隠遁」の提唱があると、ついでに私のものぐさゆえの「半隠遁」も擁護されたかのようでホッとするのだ.
ものぐさゆえの半隠遁というのはほんとうのことである。べつだん謙虚ぶっているわけでもないし、韜晦(とうかい)しているわけでもない。しかし、よくよく自分の心の奥を点検してみれば、そこには人生観(というより世間観か)にもとついた若干の主義主張もあるような気がする。
私もニーチェ同様、「自分の時間」を奪われるのが厭で厭でたまらないのだ。
ヴァレリー同様、「書く」ということは基本的にはしたないことのように思われ、「書く」こと以外のことで自己顕示する気力が湧いて来ないのだ。
オルテガ同様、「凡俗な人間が、おのれが凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとする」この超デモクラシーの世の中に辟易していて、そういう世の中との接点はできるだけ小さくしておきたいものと思ってしまうのだ……(と書いているうちに、わくわくして来る。ニーチェやヴァレリーやオルテガといった大人たちと自分とを並べて語ってしまう、この快楽)。
もう一つ、私が「ああ、哲学者だなあ」と思ったのは、「繊細な精神」「批判精神」「懐疑精神」「自己中心主義」「世間と妥協しないこと」という具合に、今の世の中では・突出して誤解されやすく悪用されやすいと思われる言葉を、著者はひるむことなく使っていることである。
「繊細な精神」という言葉一つを取ってみても、世の中にはとんでもない誤解をする人が多い。いや、むしろそちらのほうが多数派である。自分のことを繊細と思い込んでいる粗雑な精神の持ち主は驚く程、多い。
こういう抽象的な言葉を使って自分の言いたいことをできるだけ正確に多くの人びとに伝えるのは至難の業(わざ)だ。ただの「青」ではなく「群青(ぐんじょう)色」、ただのピンクではなく「サーモン・ピンク」、そういう微妙なニュアンスの違いを、いろいろな角度から、言葉を尽くして、浮かびあがらせつつ、論を進めて行かなければならないのだ。
私なぞは例の「言うだけ野暮」病が出て、こういう抽象的な言葉を使うことはサッサと諦めてしまうのだが、著者は違う。正面にガンと押し立てて、がしがしと進んで行くのである。私は狡い。著者が歩いて行った道をあとでたどって、お気楽な顔をして「そうだそうだ、私もそういうことが言いたかったんだ」と喜んでいるのだ。
冒頭に私はペーター・ハントケの詩を引用し、哲学者への憧れを語った。それは世界の根本的謎に対する姿勢の問題であって、必ずしも職業とは結びつかないとも書いた。
私は論理性の乏しさゆえか、それとも一種のニヒリズムゆえか、あるいは臆病さから来る軽薄ゆえか、哲学者にはなれなかったし、これからもなれそうもない。
しかし、この本を読んでいるうちに、もしかして私は自分が思っている以上に哲学的に生きているのかもしれないという気がして来たのだ。私の悩み、迷い、苦しみのいくつかを、「それは哲学的と名付けていいんだよ」と著者に言われているような気がした。
きっと、読者の多くもそう感じるに違いない。
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