書評
『スロー・イズ・ビューティフル』(平凡社)
引き算の進歩
ゆっくり、という言葉が逃げの文句のように語られていた時代は、とうに終わっている。現在があくまで未来の準備にすぎないような、先へ先へと物も心も前倒しして進んでいく社会の動きに対する警鐘が、きわめて小さな暮らしのレベルでの軋(きし)みから、際限のない利益追求の果てに暴発した進行中の戦争にいたるまで、はっきりと響いてくる。この危機的な状況をいかに乗り越えるか。その方途として提唱されるのが、遅さの、ゆるやかさの、「スロー」な生き方の「回復」である。適用されるべき領域は、じつに幅広い。著者はこの言葉に「エコロジカル(生態系によい)」、あるいは「サステナブル(永続性のある、持続可能な)」といった「現代用語」の意味を込めながら、あからさまな概念臭を怖れて、片仮名のまま「スロー」と表記する。かつて「スロー」なリズムは、生活そのものだった。それが暮らしの根本にあって、衣食住、すべての現場でごく自然に実践されており、遅い速いの問題など考える必要がなかったのだ。
それがいまや、説得力のある具体的な例を挙げ、行為のひとつひとつを意味づけして「スロー」の大切さを説かなければならない。速度の魔にとりつかれ、それに慣れきった人々にむかって、無駄足の、道草の、休息の、「疲れを許し、解き放つ」ことの、「いいとわかっていないことはしない」勇気の、「引き算の進歩」の重要性を理解させるには、気軽な読み物を装いつつも筋の通った記述が不可欠となる。
しかし論理や意味づけほど、「スロー」の本質から遠いものはないだろう。ゆるやかさを唱い、減速を訴える文章には、そんな背理がいつもつきまとう。避けがたい矛盾を救うのは、書き手の側の知と身体のバランスであり、上からものを言わない水平の目線である。この二点を備えている本書は、「スロー」なだけでなく「スマート」な思考の大切さをも教えてくれる。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 2001年11月4日
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