書評
『小泉八雲集』(新潮社)
きっともう一度会える
ラフカディオ・ハーンは一八五〇年ギリシャのサンタ・モウラ島に生まれ、一九〇四年東京都新宿区市ヶ谷富久町で小泉八雲として亡くなった。享年五十四歳。僕の父も同じ五十四歳で死んでいる。事業半ば、思いを残しての死だった。父の死んだ年に自分が近づくにつれ、彼についての記憶が濃くなってくることに驚いている。ふと、父はどこかで生きていて、別の生活を営んでいる、そういう父と出会う可能性を空想したりするようにまで濃くなりまさる。じつになまなましいのだ。
小泉八雲の『怪談』の中にこういうのがある。「お貞の話」という。――むかし、越後・新潟に長尾長生という人がいた。医者の息子で、お貞という娘といいなずけの約束を交わしていたが、彼女は十五の年に肺病にかかってしまう。死ぬとわかったとき、お貞が長尾にいう。わたしは死ぬが、どうぞお嘆きにならぬよう。申し上げたいのは、わたしたちはきっともう一度会えるということです。長尾はうなずき、もう一度、必ず、でもそれはあの世でね、と答える。いいえ、とお貞は静かにいった。あの世でなく、この世でもう一度、それをあなたがほんとうに心の底から願ってくださるのなら。ただわたしはもう一度女の子に生まれかわって大人にならなければなりませんから、時間がかかります。あと十五、六年、長い月日ですわ。
長尾は約束する。お貞は死ぬ。
長尾はお貞を愛していたが、やがて医家を継ぎ、しかたなく妻を迎える。子が生まれる。お貞の姿は思い出しにくい夢のように記憶から薄らいでいった。
十五、六年がたった。その間に両親を、それから妻とひとり児も亡くしてしまった。彼は寂しい家を捨て、長い旅に出る。
伊香保の宿で、若い女が彼の給仕をした。長尾はふしぎな胸のときめきを覚える。娘の物腰や動作のひとつひとつが約束していた少女の追憶を掻きたてた。呼びかけに応えた声の美しさに、過ぎた日々の悲しみがよみがえり、思わず、名前は? と問いかける。すると娘は、「わたしの名はお貞と申します。あなたは越後の長尾長生さまでいらっしゃいますね。お約束通りわたしは帰ってまいったのです」といって、気を失って倒れた。
二人は結婚した。その結婚は幸福だった。最後に作者は重要なことを書きとめている。
しかし、その後もまったく彼女が伊香保で、彼の問いにどうこたえたか、思い出せなかった。それに、前世についても何もおぼえていなかった。その出会いの瞬間に不思議に燃えあがった、先の世の記憶は、ふたたびぼんやりとなって、それから後も、そのままであった。
前世の記憶は、一瞬燃えあがって、出会いを実現する。しかし、出会いの結果としての二人の結婚を幸福たらしめるためにはその記憶はすみやかに消されなければならない。このことを僕は理屈でなく、感覚的に、身体的に了解する。ここには何か宇宙の輪廻転生の奥義のようなものが、わかりやすく、心にしみいるように解説されている。
同様に、『怪談』の中に収められた、二歳の知恵しか持たない十六歳の悲しい若者の転生を描いた「力ばか」、飢えのあまり自分の脚を食っても過去の朽ちたものたちへの呼びかけの歌をうたいつづける「草ひばり」(『骨董』に所収)にも、もう一度会える、二度生きる人や虫、生きとし生けるものの悲しみ、よろこびが、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲からわれわれへの贈り物として差し出されている。
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