選評

『私の男』(文藝春秋)

  • 2017/07/15
私の男 / 桜庭 一樹
私の男
  • 著者:桜庭 一樹
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(381ページ)
  • 発売日:2007-10-30
  • ISBN-10:4163264302
  • ISBN-13:978-4163264301
内容紹介:
優雅だが、どこかうらぶれた男、一見、おとなしそうな若い女、アパートの押入れから漂う、罪の異臭。家族の愛とはなにか、超えてはならない、人と獣の境はどこにあるのか?この世の裂け目に堕ちた父娘の過去に遡る-。黒い冬の海と親子の禁忌を圧倒的な筆力で描ききった著者の真骨頂。

直木三十五賞(第138回)

受賞作=桜庭一樹「私の男」/他の候補作=井上荒野「ベーコン」、黒川博行「悪果」、古処誠二「敵影」、佐々木譲「警官の血」、馳星周「約束の地で」/他の選考委員=浅田次郎、阿刀田高、五木寛之、北方謙三、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇八年三月号

壮大な試み

食べ物を一種の反射鏡のように使って日常生活の微妙な変化を捉まえようとしたのが、九つの短篇をつらねた『ベーコン』(井上荒野)である。その反射鏡へさまざまな形の愛を照射させて人間心理の微細な変化を観察しようという試みだ。あちこちに小手こ て の利いた表現があって感心させられたが、食べ物と愛(主に愛人関係)の二つの縛りが筆を窮屈にしたのか、九篇を通して話の拵えがやや図式になっていた。

『約束の地で』(馳星周)に収められた五つの短篇は、たがいにつながって大円環をなす。最初の短篇の脇役が第二の短篇では主人公になり、第二の短篇の脇役が第三の短篇では主人公になり……そして最後の短篇の脇役が最初の短篇の主人公になるというふうに、読み終わると、全体が鎖でつながれていることがわかる。その鎖の成分は主として暴力であり、全体から浮かび上がってくるのは荒涼とした北の大地の陰鬱な気配である。その気配がまた暴力を生むのだが、しかし最初の短篇の出来がいま一つよくないので、せっかくの試みが生かされなかった。第四、五篇は佳品なのだが。

沖縄守備軍で生き残った日本兵に四種あるという事実――それをはっきりと描き出すことが『敵影』(古処誠二)の試みだったのかもしれない。その四種とは、一、六月二十三日(守備軍の組織的抵抗の終わった日)以前に米軍の捕虜になった兵。二、そのあと八月十五日までに捕虜になった兵。三、八月十五日以降に捕虜になった兵。四、敗戦後も捕虜になることを拒み、いまだに鍾乳洞に立てこもっている兵。捕虜収容所には四を除く兵たちが混在しているのだが、みんな死者にたいして後ろめたい気持ちがあり、それがさまざまな怒りを発生させる。しかしその怒りの向けどころがどこにもない。そこでその「憤怒が敵影を求め」(六十九頁)て、収容所内で味方同士の仇討や責任追及のための密告戦が熾烈になる。思わず身が引き締まるような思いで読み進むことになるが、箴言録風な硬質な文体と煩瑣な物語時間の入れ換えに妨げられて、せっかくの志のある試みがうまくこちらへ伝わってこなかったという恨みがのこる。

敗戦直後の闇市に始まり、全共闘時代を経て、現代までの三代にわたる警察官一家の生き方に、黒くて太い謎を絡ませて描いたのが『警官の血』(佐々木譲)である。上下二巻の大作。壮大な試みだ。けれども、もっと壮大であってもよかったかもしれない。叙述の速度が早すぎて、三人の人生の山場をやすやすとつないでしまったような駆け足感がある。たとえば第二部で、二代目警察官の民雄が過激派に潜入して爆弾テロを未然に防ぐが、この潜入捜査で「(民雄は)自分の神経がぼろぼろになりかけているという自覚」(上巻三二五頁)を持つのに、それが、どのようなときにどのように、神経を痛めつけられたのか。それにふさわしい密度で書かれていない。また、彼の弟は、敵対するような立場にある組合活動家だが、この弟との関係にも十分に筆が届いていない。

『悪果』(黒川博行)もまた警官小説。ある夏の防犯係の二人組刑事の行動に視点をぴたりと密着させて〈悪人を追ううちにその悪人よりも悪人になってしまう〉という皮肉な顛末をどう活写するかという試みである。二人の大阪言葉による会話は機知にあふれ、漫才の域をはるかに超えて上出来の前衛劇のように不条理(ばかばかしく)てステキだが、この快調なテンポをときおり妨げる、刑事業務の綿密すぎる詳細や賭博についての過剰な説明――これが難かもしれない。

『私の男』(桜庭一樹)の試みは巨きく、そしてその試みはほとんど成功している。全体を通して前景にはたえず、雨が降り、氷が流れ、水があふれ、雲が重く垂れて、いつも紗幕でもかかっているようだが、これらの大自然の大道具が物語の神話化に役立っている。この前景の向うにまず浮かび上がってくるのは風変わりな結婚式だが、章が変わるにつれて時間が逆行して行き、そのつど読者はそのときどきの真相を知って絶句することになる。

たとえば花嫁(名前は花)と彼女の養父との間に性的な関係があったのではないか、たとえばその養父と彼の実母とのあいだに生まれた娘こそが花なのではないか……つまり彼女にとって実母が同時に祖母であり養父は実父であり兄であり「私の男」であった。養父からいえば実母が妻であり、花は己が娘であり妹であり「私の女」だった――というのが評者の解釈である。

これを起きた順に書けば、あいだに二つの殺人もあるし、どろどろの近親相姦モノに成り果てて読むに耐えなかっただろうが、作者は(たぶん)ギリシャ悲劇の「オイデプス王」の構造をかりて時間を遡行させてどろどろ劇をりっぱな悲劇に蘇生させた。改めて読み返して、この悲劇がじつは新しい人間関係への旅立ちの希望を宿していたことに気づく。殺人事件さえバレなければと条件がつくが(たぶんバレない)、これは暗いけれどもなかなか明るい小説なのだ。
私の男 / 桜庭 一樹
私の男
  • 著者:桜庭 一樹
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(381ページ)
  • 発売日:2007-10-30
  • ISBN-10:4163264302
  • ISBN-13:978-4163264301
内容紹介:
優雅だが、どこかうらぶれた男、一見、おとなしそうな若い女、アパートの押入れから漂う、罪の異臭。家族の愛とはなにか、超えてはならない、人と獣の境はどこにあるのか?この世の裂け目に堕ちた父娘の過去に遡る-。黒い冬の海と親子の禁忌を圧倒的な筆力で描ききった著者の真骨頂。

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初出メディア

オール讀物

オール讀物 2008年3月

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