書評
『私の男』(文藝春秋)
トヨザキ的評価軸:
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
物語の幕開けは二〇〇八年の六月。結婚式を翌日に控えた花とその婚約者の美郎が、淳悟と食事をするシークエンスから始まるこの物語は、〈私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた〉という冒頭の一文からすでに、のっぴきならない雰囲気をまとっています。だって〈私の男〉が指し示すのは、淳悟なんですから、
〈殺したからね〉〈わたしたちの罪を隠した、薄汚れたその襖〉〈まだ、子供だった。大人のくせに、淳悟は牡犬のように煩かった〉〈ずっと、逃げてるんだ。そばにいても、離れても、変わらない。俺たちは、これからだって、二人きりで、逃げているんだ……〉など、不穏な言葉を説明抜きでふいに突きつけてくるこの謎めいた第一章から、物語は過去へ過去へとさかのぼっていきます。花と淳悟の関係を美郎の視点から描く第二章が二〇〇五年十一月。女子高生の花とバイク便の仕事で日銭を稼ぐ淳悟のもとに、昔なじみの刑事がやってきたことから忌まわしい事件が蘇る第三章が二〇〇〇年七月。紋別で海上保安官をしている淳悟と十五歳の花が、逃げるように町を出ていかざるを得なくなった経緯を描く第四章が二〇〇〇年一月。かつて淳悟とつきあっていた女性の視点から父娘を描く第五章が一九九六年三月。そして、花が淳悟に引き取られ、いかに二人の関係がはじまったのかが明かされる最終章が一九九三年七月。
花と淳悟が互いを与え尽くし奪い合う関係を選びとり、惑溺し、堕ちていった十五年間を遡っていく中、二件の殺人事件の真相が明らかになるという意味で、この物語はミステリーでしょう。でも、真に戦慄すべき謎は殺人にはありません。それが、この小説の大事な仕掛けになっているのです。花と淳悟の関係はとてつもなく淫靡で、反社会的で、昏くて、忌まわしい。けれど、すべてを読んで知ったわたしには、二人の燗れた幸福が愛おしくてなりません。
ライトノベル作家でもミステリー作家でもない。この作品で桜庭一樹はついに“小説家”になりました。
【この書評が収録されている書籍】
◎「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
ものすごく危険な小説、『私の男』。トヨザキ平伏つかまつり候
ははーっ。トヨザキ平伏つかまつり候。日本推理作家協会賞を受賞した『赤朽葉家の伝説』(東京創元社)があまりにも面白すぎたがゆえに、いくら昇り龍の桜庭さんだって年内はこれ以上の小説は発表できますまいと、高をくくっておりましたの。ところが……。それを上回る顔色無しの傑作が出ちゃったんです。北海道南西沖地震で家族を失った経験を持つ二十四歳の花と、遠縁にもかかわらず彼女を引き取った十六歳年上の腐野淳悟。『私の男』は、この二人の十五年間を描いたものすごく危険な小説なんです。物語の幕開けは二〇〇八年の六月。結婚式を翌日に控えた花とその婚約者の美郎が、淳悟と食事をするシークエンスから始まるこの物語は、〈私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた〉という冒頭の一文からすでに、のっぴきならない雰囲気をまとっています。だって〈私の男〉が指し示すのは、淳悟なんですから、
〈殺したからね〉〈わたしたちの罪を隠した、薄汚れたその襖〉〈まだ、子供だった。大人のくせに、淳悟は牡犬のように煩かった〉〈ずっと、逃げてるんだ。そばにいても、離れても、変わらない。俺たちは、これからだって、二人きりで、逃げているんだ……〉など、不穏な言葉を説明抜きでふいに突きつけてくるこの謎めいた第一章から、物語は過去へ過去へとさかのぼっていきます。花と淳悟の関係を美郎の視点から描く第二章が二〇〇五年十一月。女子高生の花とバイク便の仕事で日銭を稼ぐ淳悟のもとに、昔なじみの刑事がやってきたことから忌まわしい事件が蘇る第三章が二〇〇〇年七月。紋別で海上保安官をしている淳悟と十五歳の花が、逃げるように町を出ていかざるを得なくなった経緯を描く第四章が二〇〇〇年一月。かつて淳悟とつきあっていた女性の視点から父娘を描く第五章が一九九六年三月。そして、花が淳悟に引き取られ、いかに二人の関係がはじまったのかが明かされる最終章が一九九三年七月。
花と淳悟が互いを与え尽くし奪い合う関係を選びとり、惑溺し、堕ちていった十五年間を遡っていく中、二件の殺人事件の真相が明らかになるという意味で、この物語はミステリーでしょう。でも、真に戦慄すべき謎は殺人にはありません。それが、この小説の大事な仕掛けになっているのです。花と淳悟の関係はとてつもなく淫靡で、反社会的で、昏くて、忌まわしい。けれど、すべてを読んで知ったわたしには、二人の燗れた幸福が愛おしくてなりません。
ライトノベル作家でもミステリー作家でもない。この作品で桜庭一樹はついに“小説家”になりました。
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