選評

『容疑者Xの献身』(文藝春秋)

  • 2017/07/18
容疑者Xの献身  / 東野 圭吾
容疑者Xの献身
  • 著者:東野 圭吾
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(394ページ)
  • 発売日:2008-08-05
  • ISBN-10:4167110121
  • ISBN-13:978-4167110123
内容紹介:
天才数学者でありながら不遇な日日を送っていた高校教師の石神は、一人娘と暮らす隣人の靖子に秘かな想いを寄せていた。彼女たちが前夫を殺害したことを知った彼は、二人を救うため完全犯罪を企てる。だが皮肉にも、石神のかつての親友である物理学者の湯川学が、その謎に挑むことになる。ガリレオシリーズ初の長篇、直木賞受賞作。

直木三十五賞(第134回)

受賞作=東野圭吾「容疑者Xの献身」/他の候補作=荻原浩「あの日にドライブ」、伊坂幸太郎「死神の精度」、恩田陸「蒲公英草紙 常野物語」、姫野カオルコ「ハルカ・エイティ」、恒川光太郎「夜市」/他の選考委員=阿刀田高、五木寛之、北方謙三、津本陽、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇六年三月号

力量は十分

『ハルカ・エイティ』(姫野カオルコ)の冒頭で作者はこんな意味のことを言う、「これから書くのは伯母ハルカの一生で、彼女は元祖モダンガールの一人である」と。しかしいくら読み進んでも、ハルカさんにモダンガールらしいところが見られない。とくに後半は年表に肉をつけたような筆の運びで、ずいぶん痩せている。なによりも彼女が、彼女自身の運命とどのように渡り合って血と涙を流したのか、どんなことに喜び、そして笑ったのか、そういったことがうまく書き込まれていない。したがってハルカさんは貧血気味の、あまり魅力のない女性になってしまった。また、作者独特の文体は、本作に限っていえば、読み手を精神的につんのめらせる。もっとも作者の両親のことを書くときの筆は鋭く、深くまで届き、並々ならぬ素質を窺わせてはいるのだが。

『夜市』(恒川光太郎)には、二つの中編が収められているが、そのいたるところに才能がきらめいていた。表題作「夜市」の設定は、〈ある条件が重なるとある一定の確率で〉忽然と現れる夜の市場である。その夜市で、兄は、野球の才能と引き換えに弟を売った。やがて兄はお金を貯めて、弟を引き取りに夜市へ出かけて行くが、さてこの兄弟の運命は? 現実と平行し、ときには交差するふしぎな別世界。この構造は珍しいものではないが、作者の発明による意外な趣向と精緻な細部が、簡潔で節度のある文章で綴られて行くうちに、人間存在の寂しさ、いとしさが不意に浮かび上がってくる。同時に収められた「風の古道」もまったく同趣の作でみごとなものだが、やはり同趣というところが気にかからぬでもない。この才華は別の趣向でも十分に開花するはず、ひたすらそのときを待つ。

『蒲公英草紙』(恩田陸)は、東北の桃源郷のような村に〈旅する家族〉がやってくるところから始まる。旅する家族とは何か。家族の一員である少年は言う。「僕たちの使命は、各地に散らばる一族の者の歴史(一人一人のなりわいや心持ち)を僕自身のなかにたくわえること。それを『しまう』というんだ」。他人の記憶をたくわえておき、その記憶を最適の時に解放して、みんなの役に立つようにする。いわば記憶の保存――なにごとにおいても忘れっぽいこの国では貴重な、この作者ならではの鋭い、そして興味深い着眼である。民俗学の諸成果を吸収して再創造された細部もいいし、文章も安定しているが、この記憶保持者たちが、もっともその記憶が大事にされるべきとき(大戦争)に、なんの活躍もしないのはどうしてだろう。つまり終章がはなはだ物足りない。これでは記憶の持ち腐れではないか。

『あの日にドライブ』(荻原浩)は、気持がいい。栃木出身の都市銀行の優秀な行員が、部下を庇って上役に抗弁、職を失う。そこで主人公はほんの腰掛けのつもりで小さなタクシー会社の運転手になるが、その日常の細部がいちいちおもしろい。都内を走り回っているうちに彼は、かつて上京したときに最初に住んだアパートの近くを通りかかり、それをきっかけに「あの日へドライブ」して過去の検証が始まる。自分にはもう一つ別の人生があったのではないか……ここまでは、文章はのびのびしていてドライブ感があり、細部もまた生き生きとして、上々吉である。しかしながらこの先がおとなしい。過去と現在とが正面衝突するようなこともなく、予定された結末へとあっさり着地してしまう。もっとうまく仕組まれた小説的などぎつさがほしい。もちろん、そうはどぎつく書かないぞというのが作者の志だとわかっているつもりだが。

評者は、『容疑者Xの献身』(東野圭吾)と『死神の精度』(伊坂幸太郎)の二作を推すことに決めていた。東野作品の堂々たる構造も、伊坂作品に見る機知の冴えも、ともに顕彰したいと願ったからだ。両作に共通する人間の死を扱う手つきの軽さは気になるが、しかしこれも紙の上でのこと、それほどこだわることはないかもしれない。

とりわけ、伊坂作品は、停滞することのない軽快で知的な文章の快さ、コトバの上の仕掛けの巧妙さ、死というこの世の出口から眺め返しているので当たり前のことが深い意味を持つという逆説のおもしろさなど、美点を満載した小説である。なかでも、人間をよく知らない調査部員(死神)がつい幼稚な質問を発して、じつはそれが人間の営みに対する根源的な質問になっているという工夫には脱帽した。もっとも死神が常に全能であるのは疑問で、「死神の失敗や誤算が書かれていたら」という渡辺淳一委員の意見に同感した。そうなっていたら完璧であった。

東野作品にも疑問がある。アパートの隣室の母娘の犯罪を隠すために、主人公の数学教師はホームレスを殺す。彼のトリックは、彼のこの非人間性の上に成立する。他人の生命を踏みつけにしておいて愛もへったくれもないではないか……しかし、作者の力量は疑いもなく十分、そこで最後の一票を東野作品に投じた。

【この選評が収録されている書籍】
井上ひさし全選評 / 井上 ひさし
井上ひさし全選評
  • 著者:井上 ひさし
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(821ページ)
  • 発売日:2010-02-01
  • ISBN-10:4560080380
  • ISBN-13:978-4560080382
内容紹介:
2009年までの36年間、延べ370余にわたる選考会に出席。白熱の全選評が浮き彫りにする、文学・演劇の新たな成果。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

容疑者Xの献身  / 東野 圭吾
容疑者Xの献身
  • 著者:東野 圭吾
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:文庫(394ページ)
  • 発売日:2008-08-05
  • ISBN-10:4167110121
  • ISBN-13:978-4167110123
内容紹介:
天才数学者でありながら不遇な日日を送っていた高校教師の石神は、一人娘と暮らす隣人の靖子に秘かな想いを寄せていた。彼女たちが前夫を殺害したことを知った彼は、二人を救うため完全犯罪を企てる。だが皮肉にも、石神のかつての親友である物理学者の湯川学が、その謎に挑むことになる。ガリレオシリーズ初の長篇、直木賞受賞作。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

オール讀物

オール讀物 2006年3月

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
井上 ひさしの書評/解説/選評
ページトップへ