書評
『冥土めぐり』(河出書房新社)
潮の満ち引きにも似た記憶の中の「地獄」
第147回芥川賞受賞作の「冥土めぐり」と、根津に暮らす四姉妹とよそ者との遭遇を描く「99の接吻(せっぷん)」を収録した作品集だ。どちらもあえて「狭い」範囲に舞台を限定し、一種の閉塞(へいそく)感をもって書かれている。先を見通せない不安定感やときに圧迫感、それを文体で表現することは、鹿島田文学の特性のひとつだろう。表題作はタイトル通り、記憶の中の「地獄」をめぐる一編である。正教会徒である鹿島田の作品のなかでしばしば書かれてきた「被(こうむ)り(suffering)」があり、その聖性についての気づきがあり、母と兄弟と女主人公との歪(ゆが)んだ関係がある。冒頭、夫と一泊二日の旅に出る場面を引く。「奈津子は太一に対して妻らしい気遣いはなにもしない。入退院を繰り返していた頃はいろいろと世話を焼いたが、もう疲れてしまったのだ。<中略>しかし気の毒なぐらい他人の悪意に鈍感なこの夫はいつもどおり妻に甘えて、コートを脱がしてくれと背中を向ける」「太一が、<中略>ごろんと前向きに倒れたところだった。<中略>ズボンとパンツを下げているので、尻の割れ目が見えた」。太一は常に恬然(てんぜん)としている。
奈津子の夫が難病に倒れ働けなくなって八年。パートで貯(た)めたお金でふたりが向かった先は、かつて財を成した祖父が家族(奈津子の祖母、母親とその兄妹)を連れてスイートに泊まり、高層階のサロンで祖母とダンスをしたという海辺のホテルだ。高級リゾートだったホテルは、今や大衆化している。伊豆の老舗・伊東園ホテルなどを思わせる現実味のある設定だが、今回ここを訪れたのには、「あんな生活」と呼ぶ過去とあえて向きあう目的があった。裕福だった生活に執着し浪費を繰り返す傲慢な母親と、無職で酒飲みの弟に金をたかられ、精神的にいたぶられてきた奈津子の瞼裏に、むごい場面が次々と甦(よみがえ)る。
夫婦間の会話は少ない。苦しむ奈津子をよそに、四肢の不自由な太一は自らの病にも、妻の家族の悪意にも、世のあらゆる不公平にもなすがままにされているが、奈津子には彼の人生が充実していることがわかる。「その充実を完成させるため」には、無言でいることが重要らしいことも。そんな太一の姿は、「傷を治すために薬湯に浸(つ)かる野生動物が、黙って目を閉じている」のを連想させる――。他方、奈津子の母親の甘ったれた時代の記憶は「あったかいお湯に浸かったみたいな気分」と、似た言葉ながら対照的に表現される。
本作にもまた、ロシア正教で聖なる苦行者を意味する「ユローディヴィ(和訳では佯狂者(ようきょうしゃ)など)」のヴィジョンがあるだろう。「聖なる愚か者」が登場するデビュー作『二匹』から、主人公の現在の受難と長崎の被爆を重ねて描いた三島賞受賞作『六〇〇〇度の愛』、『ゼロの王国』などの過去作に見られるものだ。
『六〇〇〇度の愛』には『罪と罰』を引きながらこう書かれる。「ロシアの聖性において、奇跡や癒しは重要視されていないことがわかる。むしろ陵辱の体験の多さでそれを計っているかのようだ」。太一も現実に奇跡はもたらさない。だが、彼にとってはどんな変化も不遇もただの「潮の満ち引き」にすぎないと気づくとき、その病は奈津子を打ちのめす決定打になるどころか、特別な「あずかりもの」をしたという悟りにつながる。
鹿島田真希の先行作の様々なテーマを読みやすい形で再現した感はある。しかし「冥土めぐり」のラストには、今までと違う空気の澄みと重りがはずれたような抜けの良さが感じられた。作家のキャリアがひとつ区切りを迎えたのではないか。
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