書評

『鴎外の坂』(新潮社)

  • 2017/07/15
鴎外の坂  / 森 まゆみ
鴎外の坂
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(451ページ)
  • ISBN:4101390223

鴎外が鮮やかにたちあらわれてくる

全編、感嘆おくあたわずという言葉はこういう本のためにこそあるのかもしれない。

もとより、著者が当代一の文章家であることは十分に承知していた。だが、これほどまでに総合的な構成力をもっているとは気づかなかった。風格ある文章がそれにふさわしい愛の対象を見いだしたばかりか、さらに独特の方法論によってしっかりと支えられているため、本書は、たんに鴎外の生涯を詳細に調べあげた評伝という域をはるかに越えた一つの見事な文学作品にまでなっている。

著者の方法論、それは鴎外自身の方法論でもある。冒頭、明治四十二年に春陽堂から発行された森林太郎考案の『東京方眼図』が示される。これは外国留学中に見た地図をヒントに鴎外がつくったものだが、著者は、この方眼図を片手に東京を歩き回った『青年』の小泉純一と同じことを試みる。「私は鴎外文学散歩をやめ、むしろ『青年』の中に地誌を読みとり始めた。明治四十二年の町は眼前に浮び上がってきた」

もう一つの方法論は『渋江抽斎』のそれである。鴎外は偶然ある人物に親近感を抱くと、その人物についての「書を集め、子孫の現在をたしかめ、墓を探す」。すると「それがたとえ幼児の砂いじりのような愚かで迂遠な方法だとしても、そこからは人間のネットワークが見えてくる。一直線に資料や結論に到達してはかすりもしない種々雑多なことども、人間同士のひっかかり」があらわれてくる。

鴎外の史伝の方法について著者が語ったこの言葉はそっくりそのまま本書に当てはまる。鴎外が「渋江抽斎の人生という渾然一体の小宇宙」を描き出したのとまったく同じように著者は鴎外の人生という渾然一体の小宇宙をわれわれの眼前に髣髴(ほうふつ)とさせる。その結果「筆は周辺の人々、子孫にまで及ぶ」

『東京方眼図』の横軸的方法と『渋江抽斎』の縦軸的方法を融合したこの独特の方法を、著者は地域雑誌を編集するうちに自然に身につけたにちがいない。評伝にありがちなロマネスクな物語性は排除され、膨大な資料の読み込みと徹底的な聞き書きが鴎外と周辺の人々の人生をおのずと浮びあがらせる形を取るが、その抑制された筆致が逆に対象への愛情の深さをうかがわせて、読む者の胸をうつ。

すなわち、息子を大事に思うあまり他人の感情や立場には無理解な家付き娘の母峰と影の薄い「宿場の医者」父静男、偉大すぎる兄を持ったがために芝居好きなディレッタントとして生きるほかなかった弟篤次郎、なんの欠点もなかったにもかかわらず人並みの器量ゆえに鴎外がどうしても愛することのできなかった前妻赤松登志子、鴎外が再婚するまで性の処理役として母峰が与えた薄幸な女児玉せき(著者は『雁』の玉の面影を彼女のうちに見ている)、そして、姑と激しく対立し悪妻といわれながら、鴎外を愛し、また鴎外から深く愛された美貌の二度目の妻しげ、それに限りなく優しい父の思い出を心の糧として生きた子供たち。

これら周辺の人々が力強いデッサン力でくまどりされたうえで、愛情の強い光を当てられるとき、その中心から、美しい微笑をたたえた鴎外が、まるで白い絣(かすり)の着物を着てステッキをついて無縁坂を登ってくるかのように、鮮やかにたちあらわれてくる。掛け値なしの傑作の誕生である。
鴎外の坂  / 森 まゆみ
鴎外の坂
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(451ページ)
  • ISBN:4101390223

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 1997年12月14日

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