書評
『初恋、その他の悲しみ』(東京書籍)
少年の悲しみと歓び
本など書かずに、ただ読書三昧で暮らせたらどんなにいいだろうと思うことがあって、アルゼンチンの作家ボルヘスもどこかで似たようなことを書いているのを読み、意を強くした覚えがある。書く歓びは、読む歓びに較べたら数段劣るし、どうもどこかにさもしい感じもつきまとう。寡作の小説家はこれを言い訳にすることもできるだろう。
寡作の大作家、文豪というものはいない。それについては以前、この欄で谷崎の作品を取りあげた際述べたが、しかし、寡作だからこそ価値がある作家、作品というものもある。精魂こめた、彫琢の美術工芸品のようなもの。
そういうひとりに、日本ではあまり知られていないが、ハロルド・ブロドキーというアメリカ人作家がいる。彼は一九五〇年代の終わり、二十五、六歳で『初恋、その他の悲しみ』という短篇集を出したきり、三十年以上、全く作品を発表しなかった。それなのに、彼はこの一冊で、アメリカでトップの作家としてずっと敬重されてきたという。日本では誰がいるだろう。ちょっと思いつかない。一九九一年になって、ようやく長篇小説が発表され、大反響を呼んだ。これは、彼が五十年代からずっと書きついできたものだという。
その貴重な『初恋、その他の悲しみ』が、ちょうど彼の長篇が本国で発表された九一年、良質の日本語に訳されて出た。
ぼくはブロドキーについて何も知らず、たまたま書店の棚でタイトルが目にとまり、拾い読みしたのだった。
そのしずけさと赤レンガにかこまれた場所に、わたしの家はあった。そこにはえていた二本のニセアカシアをうつくしい木だと思っていた。きっとその小さなニセアカシアの木を、心や魂だけでなく、実際にわたし自身の腕でつつみこむことができたからだろう。
父はもう四年も病院で不治の病とたたかっていて、ついに死に屈するまで、それから二年ももちこたえた。父親らしいふるまいといえば、それくらいのものだった。
これはいい本だ、と直感した。その日のうちに、夢中で読み終えた。
表題作のほか、「少年期」「いさかい」「センチメンタル・エデュケイション」「緑の谷を笛ふいて」など十の短篇が連作の形で並んでいる。
セントルイスに住む〈わたし〉は、早くに父を亡くし、美しい母と姉と暮らす頭のいい少年だ。木もれ日が水に落ちて揺れているような、そんな不安ときらめきを抱えた〈わたし〉が、成長の過程で味わう悲しみと歓びが、平明だが、くり返し読めば読むほど複雑さをましてゆくふしぎな文体で描かれていて、とても二十代半ばの青年の作とは思えない。磨きぬかれ、吟味された文章だ。まさに、この時から寡作を運命づけられた作風といえる。
一九五〇年代終わりといえば、フランスではフィリップ・ソレルスが二十一歳でデビューしている。モーリャックやアラゴンを驚嘆させた彼のデビュー作『奇妙な孤独』もまた、少年の孤独で複雑な心理を、透徹した文章でリリカルに描き切った作品だった。しかし、ソレルスのほうはその後、派手なパフォーマンスの難解な前衛作家として活躍するが、ブロドキーのほうはずっと沈黙しつづけた。
彼はその間、いったい何で暮らしを立てていたのだろう。余計なお世話か。人はペンのみにて食うにはあらず。
いつまでも書店の棚に並んでいてほしい一冊だ。
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