書評
『O嬢の物語』(河出書房新社)
神のもとのポルノ小説
卑下、という言葉について考える。中国語では自卑(ツーペイ)、英語では belittle、と書く。自らを軽蔑し、卑しめ、鞭打ち、傷つけ、自分はいつも間違っていると考え、他に服従する。キリスト教の異端には鞭打ち教という分派があったし、ロシアには信者が自分の乳房や性器を焼き切ったりする儀礼を行う一派もあった。神に近づくためである。僕だって、ときに強くて奇妙な自己卑下に捉えられて、空想裡にだが心身を痛めつけることがある。このときだけ、一神教の神、支配者としての神というものをおぼろげに感じることができる。そして、その刹那、卑下は度しがたい他者への優越感に転じる。神を味方にひきいれたのだ、と。
キリスト教文化圏の名だたるポルノ小説はこの卑下のはての神との邂逅物語である。マルキ・ド・サドの小説はその代表例だが、女性作者名によって一九五四年に刊行されセンセーションを巻き起こした『O嬢の物語』もまたそうだ。
主人公のO嬢はパリのモード写真家で知的で魅力ある女性。このOが恋人のルネに、ロワッシー城という、女性を性の奴隷化するための調教施設に連れ込まれる。ここでOは鎖につながれ、鞭打たれ、ひたすら男の欲望に奉仕する女に変えられてゆく。肛門を拡張するために直立した男根を模して作ったエボナイトの棒を挿入される。この棒は、毎日だんだん太いものに変えられ、内部の筋肉の運動によってとび出すことのないように腰のまわりの革のベルトに吊った三本の鎖で固定されているという念の入れようだ。
奴隷化の過程を速やかに、先に駆けてゆくのは肉体よりも精神で、Oは破廉恥な性行為の屈辱をまず心で喜ぶようになる。そのあとに肉の歓びが走る。
やがてOは、自分は罪ある者であり、罪ある者のみが罰を受けることによって神に許されるのだから、この凌辱は、自分が神に値する女であることの証明だと考えるようになる。鞭打ちの裂傷も、陰部に穴をあけてつけられた鉄環も、臀に押された烙印もすべてこれを神の恩寵の痕跡とみなすようになる。最後に、Oは卑下と恥辱にまみれて死んでゆくのだが、魂は神のいる高みへとのぼってゆく。
僕はこれを二十年ほど前に読んだ。二、三年前、再読してあきなかった。いや、初読時より何倍もおもしろかった。若い頃、これをとても観念的に読んでいたのだと思う。つまりキリスト教文化の神秘主義(ミスティック)文学として。そういう拘束から離れて、とても肉感的に読んで、興奮した自分に驚いた。
作者のポーリーヌ・レアージュは女性名だが、匿名で、発表当時から世界中でほんとうの作者は誰か、話題が沸騰した。書き手は男で、たぶん長い序文を寄せているジャン・ポーランではないか、といわれた。彼自身は序文で、「作者が女であるということには、ほとんど疑問の余地はあるまい」と書いているが、この言は信用がならず、僕も、作者は男だろうな、と思っていた。
去年の夏、新聞の小さな記事が偶然目にとまった(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年頃)。
〈『O嬢の物語』の原作者はだれか? この近代文学界四十年来のミステリーがついに解決した。ポーリーヌ・レアージュという偽名で一九五四年出版されたこの本は、その特異な描写から男性作家の著作とされてきたが、実際の著者はフランスの著名な女性編集者のドミニク・オリさんだった。オリさんは現在八十六歳で、原作者であることを認めた〉(ロイター)
噫(ああ)……。
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