書評

『追憶の東京:異国の時を旅する』(早川書房)

  • 2021/04/08
追憶の東京:異国の時を旅する / アンナ・シャーマン
追憶の東京:異国の時を旅する
  • 著者:アンナ・シャーマン
  • 翻訳:吉井 智津
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(368ページ)
  • 発売日:2020-10-15
  • ISBN-10:4152099518
  • ISBN-13:978-4152099518
内容紹介:
江戸から令和まで、東京は様変わりしてきた。その変化の跡を求めて、英国作家が訪ね歩く。現代日本人も知らない東京を伝えるエッセイ

街が忘れつつある記憶を探る幻視行

東京に十年余り滞在した経験を持つ、英国在住のアメリカ人作家による紀行エッセイ――こう言われるだけで、読者はつい身構えてしまうかもしれない。そういう外国人による日本体験記は数が少ないわけでは決してないのだし、いくら観察者として鋭い目を持っていても、そこには微妙なずれがあることをわたしたち日本人は感じ取ってしまうものである。ましてや、そこに描き出された日本の姿が先入観によるステレオタイプなものであればなおさらだ。

しかし、アンナ・シャーマンによる『追憶の東京 異国の時を旅する』は、そうした日本人読者の予断を、快いほどに裏切ってくれる。

もう一つ、読者が抱くかもしれない予断は、『追憶の東京』というタイトルで示されている「追憶」が、東京に滞在していた頃の回想だろうという思い込みだ。たしかに、そういう体験記という部分は、本書にもある。しかし、本書が描こうとする「追憶」は、東京という街が江戸と呼ばれていた頃から持っている記憶を呼び起こそうとする試みである。そんなことが、日本人ではない異邦人にどうしてできるのか、と問いたくなるかもしれない。本書に登場する、徳川家の第十八代当主も著者にこう言う。「あなたは東京のことを本に書くとおっしゃるが、どうして書けるのかがわからない。この街はどこもすぐに変わってしまいますからね」

記憶を発掘する旅に著者を導くのは、作曲家の吉村弘が書いた『大江戸 時の鐘 音歩記(おとあるき)』という本に出てくる、「目を閉じて音を聴けば立ちあらわれる街」としての東京というコンセプトだ。時を知らせる鐘の音は、江戸時代に将軍も耳にしたはずだし、いまの時代に生きるわたしたちにも届けられる。「昔からいまへと時のなかを動いてきた痕跡が、その音に包みこまれている」。失われた街の姿を求めて、著者は時の鐘がある(または、かつてあった)寺を訪ねながら、東京地図にそうした寺が描き出す円の圏内を歩いてなぞっていく。日本橋の大安楽寺、浅草の浅草寺、赤坂の円通寺、上野の寛永寺、築地の築地本願寺、新宿の天龍寺……。

それは単なる印象記ではない。なぜなら、著者は英語文献のみならず、日本語文献まで綿密にリサーチしているからである(巻末に付けられた、圧倒的な量の注釈からうかがえる、著者の丹念な文献の読み込み方を見よ!)。あまたの本(そこには、河竹黙阿弥の『四千両(しせんりょう)小判梅葉(こばんのうめのは)』、川端康成の『浅草紅団』、さらには石川淳の「焼跡のイエス」までもが含まれる)を通してかつての江戸または東京の姿をしっかりと目に焼き付けているからこそ、たとえ時の鐘がいまはもうそこにはない場合でも、「そこにないことが、なぜか鐘に重さと質感を与えていた。もしもこの目で見たり、この耳で聴いたり、あるいはこの手でふれることができたなら感じることのなかった存在感だ」と著者は書けるのだ。その意味で、本書は東京幻視行であり、幻聴行でもある。

本書の数多い独特の魅力のひとつは、こうして時の鐘を訪ねて円を描く動きとは対照的に、じっと静止しているような、表参道の交差点近くにあった伝説の喫茶店として知られる「大坊(だいぼう)珈琲店」での断章が、時の鐘のセクションと交互に置かれているところだ。著者のアンナ・シャーマンは、この喫茶店に足繁く通いながら、少しずつ日本語を覚えていく。そこで流れている時間は、正確に、しかし容赦なく時を刻む公の時間とは違って、ゆっくりとした私の時間である。人はこの喫茶店で、あわただしい時間を過ごすことで見失っていた自分を、ゆっくりと取り戻していく。動いてはまた止まる、こうした本書の運動に合わせて、読者もところどころでしばし立ち止まっては瞑想することになるだろう。

動と静の対比。それ以外にも、さまざまなコントラストが本書には見いだせる。「古いものとあたらしいものが混じりあい、不思議な混乱を見せる」赤坂に象徴されるような、過去と現代。東京という街が抱えている、光の部分と闇の部分。そして、大坊珈琲店に代表されるような静寂の世界と、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の世界。

時の鐘を訪ねる旅は、歴史に埋もれたものを発掘する旅にもなる。江戸の時の鐘を知らせていたのが小伝馬町牢(ろう)屋敷で、そこで亡くなった者の数は何万にものぼる。その「魂を鎮める」ために建てられたのが大安楽寺で、牢屋敷跡を保存しようと奮闘したそこの住職は、「いまこのときとその時代のつながりをこのままとどめておきたいと思った」と言う。北砂にある東京大空襲・戦災資料センターを訪れた著者は、その帰り道、隅田河畔の公園で、本所横川の時の鐘の記念碑を見つける。それは小さな模型で、過去の痕跡をかすかにとどめているだけだった。

「みずからを破壊し、そして建て直す」東京という街が忘れつつあるもの、忘れようとしているものを、著者はゆっくりとした足取りで描き出している。だから、これは異邦人にしか書けない、独自の東京論になりえているのだ。
追憶の東京:異国の時を旅する / アンナ・シャーマン
追憶の東京:異国の時を旅する
  • 著者:アンナ・シャーマン
  • 翻訳:吉井 智津
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(368ページ)
  • 発売日:2020-10-15
  • ISBN-10:4152099518
  • ISBN-13:978-4152099518
内容紹介:
江戸から令和まで、東京は様変わりしてきた。その変化の跡を求めて、英国作家が訪ね歩く。現代日本人も知らない東京を伝えるエッセイ

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毎日新聞 2020年12月26日

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