書評
『忘れられた帝国』(毎日新聞社)
物の怪の語り
一昨年の春、渋谷のジァン・ジァンで、奥泉光と島田雅彦の肝いりで小説朗読の会があった(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆年は1996年頃)。会にはちゃんと名称があったが思い出せない。誘われて筆者も参加したのだが。島田雅彦は、ちょうど毎日新聞でその年の五月から連載がはじまる『忘れられた帝国』から二つのエピソードを選んで朗読した。端正で、メリハリのきいた声だった。
ひとつは、排便のあと、お尻の穴を綺麗に舐めてくれるシリナメの話。
シリナメは恥しがり屋で決して人前に姿を見せない。野グソが一般的だったその昔はよく村や街頭にも姿を現わしたが、やがて便所が普及するとそこに住み込むようになった。(略)シリナメは水洗トイレでは暮らせない。
といった調子だ。
もうひとつは、耳が悪く、胃腸も弱いヨネダ君の話。彼は濁音が使えない。給食のあとよく水飲み場でゲロを吐く。彼が吐いた流し穴に一番近い蛇口にはだれも近付かない。彼の専用で、そのかわり他の蛇口の使用は禁止されている。語り手・主人公のぼくはある日、ヨネダ君がみんなの蛇口をひとつずつひねっては口をつけて水を飲んでいるのを目撃する。「誰(たれ)にもいわないて。その代わり、とっておきの秘密を教えてあけるよ。……ぽくの水道(すいとう)の水(みす)か一番(ぱん)おいしいよ」
以来、ヨネダ君はぼくを、螢を誘惑するように、こっちの水(みす)は甘いそ、とささやきかける。
ぼくは物心ついた頃から強い厭世観の持ち主だ。このぼくはじつはすでに十八歳の時に死んでおり、小説はぼくの死後さらに十八年たった一九九五年(とりもなおさず新聞連載時点)、三十六歳になった島田いたこの呼び出しに応じて、自分の幼少期を語るというしくみになっているのだが、それはあとで本になってからわかった。
朗読会での語り。あれは島田雅彦の声であると同時に、死者の声でもあったのだ。
死ぬなら、老化という言葉とじつは同義にすぎない成熟を拒否して、少年のうちに、生命の絶頂期、夢みる能力の絶頂期に、つまり十八歳で死ななければ意味がない。だから、ぼくを十八で死なせた作者の選択は清く、潔(いさぎよ)く、正しい。
物語は東京近郊、多摩川とおぼしき川べりの新興都市を舞台に展開する。
次のような、粋で迫力あるぼくの祖父が登場する。
昔は、「女に会いに行く時は必ず渡し船に乗るんだ。女はいつだって彼岸にいるもんだ」
そのじいさん、戦争にとられ、捕虜になり、黒龍江(アムール川)を隅田川にみたてて、川向こうにゃ女がいる、と夢を食ってたおかげでシベリアの収容所(ラーゲリ)を生きのびた。そして、ぼくにこんな説教を垂れる。
「大陸と島の違いは、川の向こう岸に敵がいるか、芸者がいるかの違いだ。芸者を買いに渡し船に乗って川を渡ってた呑気(のんき)な島の遊び人が大陸で戦争やって勝てると思うか?」
祖父やヨネダ君の他に、つげ義春や競輪選手、ぼくの父母、弟など次々と登場し、多摩川に棺桶の渡し船が浮かび、教室でのウンチ漏らしやスカートめくりのエピソード……と息つくまもなく痛快なロンドを踊る。
笑ったあとのほろ苦さ。島田雅彦の本領発揮だが、さらに新しく強力な助っ人が加わった。先述したように、死者の語り口だ。郊外という土地の物語を書くこと、とあとがきにあるが、土地の精霊は死んだ者にしか乗り移らない。とすれば、島田は望んだものを易々(やすやす)と手に入れた。つまり、物の怪の語り、物語を。
【文庫版】
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする




































