書評
『親鸞をよむ』(岩波書店)
祖師の思想に「からだ」で向き合う
このところ、親鸞や道元・日蓮など鎌倉仏教の祖師に多くの関心が注がれており、多くの著作が生まれている。かつての鎌倉仏教への関心には、日本の宗教改革といった方面からのものや、権力との関(かか)わりに注目したものが多かったのだが、ヨーロッパ世界との比較からではなく、祖師そのものと直接に向かい合って、探ってゆくことが行われるようになっている。
本書もまた、頭で読むのではなく、親鸞を「からだでよむ」ことを提唱し、その多元的な把握に努めている。これまで『悪と往生』『親鸞の浄土』を著わした著者の親鸞三部作の第三作であり、これ以前には主に頭で読んできたのであったが、それを「からだでよむ」べく試みたのである。
親鸞の生きた鎌倉時代は、栄西や道元の禅宗といい、一遍の踊り念仏といい、身体(からだ)に注目する仏教が広がっており、そのことを考えるならば、当然になすべき作業であろう。
そこでは、親鸞を描いた肖像画の解読からはじまる。親鸞の「鏡の御影」を取り上げて、道元の「月見の御影」と比較しつつ、そこに時代の精神をよみ取る。「愚禿(ぐとく)親鸞」という署名からは、その九十歳の長寿を生きた親鸞の生命の強靱(きょうじん)さを指摘する。
そして親鸞が住んだ町や村、親鸞が対峙(たいじ)した海や山に触れ、そこから親鸞と直接に向かいあって、考察を進めてゆく。ここでは著者自身の体験を踏まえつつ、「想像が想像をかきたてる」なかで、奔放に想像の翼に乗り、親鸞の歩いた道を追体験してゆく。
海にまつわる日蓮との対比が特に面白い。ただその分析は歴史的文脈からすると、筆者にはやや首を傾(かし)げたくなるような記述も散見するのだが、その現代から中世への飛躍のあり様がまた興味深い。
著者が親鸞をよむにあたって重視したのは、主著『教行信証』であり、晩年の和讃(わさん)である。親鸞といえば、すぐに思い起こされる『歎異抄』については、弟子の唯円による著作であることから、それとは距離をとって、『教行信証』と和讃とから親鸞の考えに迫ってゆく。
『歎異抄』の悪人正機説や、神祇(じんぎ)不拝の考えの捉(とら)え方なども、これらから再検討し、説得力ある見解を導いている。
たとえば悪人正機説は可能性としての悪を、『教行信証』は現実の悪を問題としていると指摘する。決して一元的には割り切れない、親鸞の思想がそこから浮かびあがってきて、まことに刺激に満ちた作品である。
考えてみれば、『歎異抄』は弟子の唯円から見た親鸞の言説であり、『教行信証』や和讃は、親鸞から発する親鸞についての言説であり、著者が注目した親鸞の妻の恵信尼の文書は、恵信尼から見た親鸞の言説である。いずれも親鸞の一部であって、著者のいう、「からだでよむ」とは、そういう広い視点からの接近と理解した。
「よむ」と特に仮名書きにしたのは、和讃をよむことに注目してのことでもあろうが、対象のあり方にそって様々に「よむ」行為が必要になるという考えに基づくのであろう。
なお親鸞が名をいくつか変えていたことに、著者が注目した点は、なるほどと興味深かったが、なぜか最初の名の「範宴」に触れておらず、恵信尼が親鸞を「善信御房」と称していたことにも触れていない。この点はどう理解すべきであろうか。
その点も含めて、著者にはさらに親鸞についての第四部を書いて欲しい、と思った。本書の上に立ってさらなる、「からだでよむ」作業の展開を望みたい。
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