鬱々とした覚醒
王子、赤羽、日暮里、南千住、神田、秋葉原、杉並、玉川上水、多摩川、四谷三丁目。なかにはパリ、マラケシュ、アイオワなど片仮名の地名も登場するのだが、「不意に何もかもを放り出して人生を零からやり直したい」と感じている四十男の「わたし」や、牧野、榎田、倉沢、柳原、須山といった、名字に自然の一字をふくむ男たちがたどる町々は、いずれも自発的に訪れた土地というより、ただなんということもなくぶらついているうちにさまよい込んでしまった空間だ。さんざん歩いたあげく最後にはそれがすべて幻ではなかったかと自問せざるをえない彼らの、記憶というよりボルヘス的な存在のおぼつかなさ。夢かうつつか、彼らが出会う幻影はいつも白い。「すうっと」出てきて耳をつまむ「お狐様のように冷たい」女の白い乳房や、有紀子という女性が久しぶりに訪れた伯父の家で出会った「葡萄の一つ二つ」をすすめる女の青白い光。本書にはなんと白い幻が満ちていることか。「胡蝶骨」の白道、「彗星考」の少女の白いふくらはぎと白い発光体の彗星、夭折した歌人の作品の、一字分の空白。いかにも疲れた様子の男たちの時間は、そうした白さに包まれていつも「するすると」流れ、鬱陶しい雨の日の手持ちぶさたも「ある種の心地よさ」にすり変わる。しかし「処女小説集」と帯にうたわれた『もののたはむれ』の真の主人公は、内田百閒と吉田健一をかけあわせたような、背筋をひんやり襲う官能と紙一重の恐怖であり、ゆるやかな時間の堆積である。白楽天、『聊斎志異』、ピエール・ベール、人麻呂など、知の意匠を召還する仕掛けもふんだんにほどこされているのだが、「たはむれ」が意識されているだけあってそれも嫌みにならない。なかでも秀逸なのは、連綿とつづく言葉の流れに飲まれて主語が末尾に追いやられる吉田健一の文体模写だろう。「(……)そんなときはカーテンを開けて窓から隅田の流れが月に照り映えているさまを見つめていると静かな放心状態が徐々に訪れて救われるような気持になることがあるというのは、その女と付き合ううちに榎田が学んだことの一つだった」。この一文の、文章じたいがどこかで疲労している歪みの呼吸は、吉田健一の「二十九文字」の遺稿と内田百閒の『日没閉門』における「言葉の断絶」をつないでみせた「変化と切断」(「新潮」一九九七年新年号)を補足する、じつに巧妙な批評とも言えるだろう。
ところで著者は、鬱々としながらどこかで醒めている。「作者の死」ではなく「言葉の死」によって刻みつけられる「切断」の狂気を、まちがってもなぞろうとしないからだ。逆に言えば、持続のさなかで「切断」を完遂するための方途がもう見えているということなのではないか。そう期待させるだけの魅惑に溢れた十四篇である。
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