書評
『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし』(ミネルヴァ書房)
慇懃で柔軟な思考もつ時代の寵児
田沼意次といえば、江戸時代に賄賂(わいろ)政治を行ったとして、多くの批判を浴びてきた政治家である。しかしそれだけではなかったはずだ、ということから評価する動きも最近は増えてきている。賄賂の噂(うわさ)はその跡を襲った松平定信が寛政の改革を実施するにあたって意識的に流したものであり、実は清廉な政治家としての一面を有していたとみるばかりか、江戸時代に重商主義的政策を主導したとして高く評価する向きさえある。
どうしてそのような正反対の評価が生まれたかといえば、意次に関する史料がいたって少なく、どうしても他からの評価にたよらざるをえないことによるらしい。本書の著者もその史料の少なさがゆえに、これまでに本格的に扱うことを控えてきたという。
江戸時代の政治家は多くの史料に恵まれていることから、それらをきちんと整理し分析してゆけば、自ずと新しい研究が生まれてくるため、史料の少ない政治家の研究には二の足を踏むのであろう。しかし田沼意次という存在がそれを許さなかったのである。
意次の父意行は和歌山藩の足軽であったが、八代将軍の徳川吉宗の側近くに仕えて登用され旗本となった。意次はその次の九代将軍になる家重の小姓に抜擢(ばってき)され、一七三五年(享保二十)に父の遺跡六百石を継いだ。それからが目覚しい昇進の始まりである。
その二年後(元文二年)に主殿頭、家重の将軍就任に伴って本丸に仕えて千四百石の加増をうけ、さらに三千石の加増を経て、一七五八年(宝暦八)に起きた美濃の郡上藩の百姓一揆に関する裁判にあたっては、一万石の大名に取り立てられ、そこでの果断な処理によって名声を博した。
こうして家重及び十代将軍家治の信任も厚かったことから、一七六七年(明和四)には御用人から側用人へと出世し二万石の相良城主となり、一七六九年(明和六)に老中格、そして一七七二年(安永元)に相良藩三万石の大名に取り立てられ、老中を兼任。こうして前後十回の加増で六百石の旗本から五万七千石の大名に昇進したのである。
著者は、この意次の出世について、元禄時代以降の将軍専制政治の傾向にともなうものであったとして、同じように側用人から出世をとげた柳沢吉保らと比較しつつ、その歴史的位置を指摘する。将軍の厚い信任を背景に出世するとともに、血縁・姻戚関係を網の目のようにめぐらして幕閣人事を独占してゆき、田沼時代を築いた動きを探る。
その田沼時代の政策の基調についても、時代の流れにともなうものであり、実は享保の改革に始まる幕府の財政赤字対策の柱であった倹約令にあったと指摘する。
下総の印旛沼の干拓などの新田開発や鉱山の開発、蝦夷地の開発計画という「興利」の策が様々に講じられ、富を追求する動きが加速化していった。拝借金の停止や幕府銀行(貸金会所)の構想などの金融政策も次々と登場した。
これらの政策を具体的に検討して、そのほとんどが「国益」や「御益」と称される幕府中心の利益を求める動きであり、それに群がる「山師」たちの活動に乗ったものであったとし、意次は、いわばその山師の上の「大山師」といったところであるとも指摘する。
総じて本書は意次が時代の風潮に乗った寵児(ちょうじ)であったという側面を明らかにしているのである。では意次個人はどうだったのかが気になるが、意次が清廉な政治家であることを物語るとされてきた史料をきちんと読解し、決して清廉であったことを示すものではないと一蹴(いっしゅう)している。
そうなると意次は全く魅力のない人物だったのか。意次は「またうど」(正直者)と称され、「そげもの」(変わり者)を嫌い、自分の権勢に奢(おご)らず、何事にも慇懃(いんぎん)で丁寧であったという。この点については小身から出世したために身についた性格であったとし、そのために用人や家来などの統制がうまくいっていなかったと見ているが、晩年になって、家臣の選挙によって重臣を決めようとしたことを明らかにしつつ、これは意次の柔軟な思考を物語っていると評価している。
意次の多くの政策が、明和の大火や浅間山の大噴火などの災害の勃発(ぼっぱつ)、また天明の飢饉(ききん)による食糧難や疫病によって失敗に帰し、すべてのツケを負わされ、失脚したのであるが、どうもそこには縁戚関係を結んでいた田沼派の老中であった水野忠友の策謀があったらしいことも推測している。
意次とは距離をおきつつ、その行動を冷静に探った本書は、「意次という人物の全体像を描くことはとても無理であった」という著者の感想にもかかわらず、意次の人物像を巧みに描きだしたものといえる。そして最近の「国益」「御益」を求める政治や経済の風潮を歴史的に考える視座をあたえてくれる本ともなっている。
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