書評
『謎ときサリンジャー――「自殺」したのは誰なのか』(新潮社)
衝撃の問い、創意に富む綿密な考証
「バナナフィッシュにうってつけの日」の結末をめぐる、壮大で驚くばかりに緻密な考察の書である。「この短編にはこんなことが書かれていたのか!」と、読者は一ページごとに瞠目(どうもく)するだろう。米フロリダのリゾートホテルの一室で、三十一歳の男「シーモア・グラス」が幸せのさなかに拳銃自殺を遂げた――この短編のラストをこのように解釈している読者は多いだろう。しかし本書はまず、「死んだのはシーモアだったのか?」という衝撃的な問いを発する。次に「それは本当に自殺だったのか?」と。
この短編の前半は、シーモアの妻ミュリエルがホテルの室内で母と電話で話すようすを描いている。その会話には、シーモアの名も出てくるので、この旅に同行していると思える。後半はビーチで若い男が少女とたわむれるさまが描かれ、この男はエレベーターで乗り合わせた女性が、彼の足をじろじろ見ていると妙な言いがかりをつけ、部屋に帰った後、妻の眠るベッドの横で、唐突に銃を自分の右こめかみに当て、引き金をひく。そこで小説は終わりだ。
シーモアの戦争体験による心的外傷が自殺の原因の一つではないかという解釈が一般的だが、『謎ときサリンジャー』は、この死が未来において予告される必然のものだと教えてくれる。サリンジャーが発表した最後の短編「ハプワース16、1924年」には、この死の迂遠な謎ときが含まれているのだ。シーモアと弟バディーの「どちらかがこの世を去るときには、いろいろな理由で、もう片方がそこにいることになる」という奇妙な一節。シーモアが死んだホテルの部屋には、妻以外にいなかったはずなのに……。
しかし三人目がいたのである。いや、全的な存在と言えるかわからないが。さらに著者はこう問う。ビーチにいた「若い男」とは本当にシーモアなのか?(see more glassという言葉遊びがあるが、確かにシーモアという名はこの場面には一度も出てこない!)「若い男」は山羊座だと言うが、シーモアはそうではない……。
ビリヤード台でぶつかる二つの球の比喩と衝突音。中編「シーモア序章」に出てくるアンデルセン「赤い靴」の真意。ある短編集に引かれた白隠の禅の公案「隻手音声(せきしゅおんじょう)」(片手による拍手の音とは何か?)と意味の反転。やはり最後に「死」を暗示して終わる短編「テディー」との“答え合わせ”、さらには、芭蕉の俳句と鈴木大拙の論などを経由して、本書は茫洋としたサリンジャーの死生観を露わにしながら、最終章へ。『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンのもつ「蟬」のごとき感覚とは?
本書の論証が恐ろしく複雑で創意に富むのは、「バナナフィッシュ…」も、グラス家の人びとを描いたその後の小説群も、書いているのがシーモアの弟で作家のバディーという設定であり、これらの作がメタフィクション化しているためでもある。
小説には、読者から見ると、作者が書いたと思ったことが書かれておらず、書いたはずのないことが書かれている、そういうことがよくある。本書にも、もしかしたらサリンジャーの企図を超えた独創があるかもしれない。それは考証の分厚さと綿密さで、確固たるリアリティを獲得している。瞠目の書である。
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