書評
『中世の写本ができるまで』(白水社)
<知>の伝達の神髄へいざなう
人間がほかの動物と異なるのは、人類の過去の経験や知識を身につけられるからにほかならない。ヨーロッパでは、印刷術が拡がるルネサンス期まで千数百年にわたって、写本が制作されてきた。本書は、その工程について「紙と羊皮紙」「インクと文字(スクリプト)」「彩飾と装丁」の項目の下で、七九点の美しいカラー図版とともに語っており、わくわくするような読書体験ができる。まずもっての疑問は、これらの中世写本は修道士が作ったのかという点にある。たしかに、十二世紀までは写本は修道院か教会で制作されていた。だが、それ以後、書物が増えだすと、修道院は俗人の写字生(しゃじせい)と写本画家を雇って、共同で書物を制作させたという。やがて、世俗の工房が写本を筆写・装飾して広く販売するようになったらしい。
次なる疑問は、写本制作にかかった時間に関するもの。修道院での写本制作の時代はゆったりしており、一年に三、四冊ほど仕上げていたという。ところが、職人写字生が大半になる時代には、出来高払いだったせいか、なかには一冊を五十二~五十三時間で仕上げたことを自慢する「早業師(ヴェロックス)」も出て来たのだった。
さらなる疑問は、中世写本の作り方をめぐるものだが、それこそ著者の語りたいことであるのだ。まずは羊皮紙が動物の皮から作られ、とくに牛と羊が用いられたという。その羊皮紙は全紙が長方形になっており、それを重ねて折りたたんで折丁(おりちょう)とよばれていた。もともと写本は、小さな折丁を順番に束ねて作られた大きなまとまりの冊子なのである。
写字生の仕事は、罫線引き、羽根ペン作りに始まり、筆写の作業がある。「インクで書き間違えたら、どうしたのか」など興味津々たる問題もある。また、職人写字生が顧客の好みに合わせて提供する様々な種類の書体を示した宣伝用ポスターもあったり、生業としての写本作業の多彩さが知られる。
そもそも中世写本を手にとる楽しみの要には、どれひとつ同じものがないというところがある。写本によって装飾が異なり、筆写後に装飾を描くので、それ用の空白の場所が空けられていたらしい。
中世写本の挿絵の図案は、しばしばほかの出典から複写されていた。魅力ある絵図は、そのたびに主題は変わっても、模写する値打ちがあったらしい。たとえば、古代末期のイタリア写本における文人政治家の図案が、イングランドの写本では旧約聖書の預言者の場面に登場したり、八世紀初めの福音書では福音書記者マタイの肖像として使われたりしているのだ。
写本制作には、一般読者にはなじみのない特殊な用語が出てくるので、読みづらい部分もあるが、幸い巻末に用語解説が添えてあり、こなれた訳文のおかげで、きわめて読みやすいのは救いである。
ともあれ、オックスフォード大学のボドリアン図書館所蔵の写本を中心として、写本研究の第一人者がいざなう写本文化誌の世界には、人類にとっての<知>の伝達の神髄がこめられている。多彩なカラー図版をながめるだけでも、デジタル伝達がもちえない人肌の温もりのようなものが感じられ、写本そのものを手にとってみたくなるのは、評者だけではあるまい。きっと良い本を読んだと実感してもらえるのではないだろうか。
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