書評
『言葉たちに 戦後詩私史』(港の人)
長い沈黙が熟成させた詩の言葉
詩は、書き手のなかにずっと抱えていられる臓器のようなものだろうか。詩人は言葉を吐き出すのではなく、ここしかない機会を捕まえてそれを摘出する。本書を読んで、そんなことを思った。平林敏彦は一九二四年生まれ。戦中、十代の頃に詩作をはじめ、敗戦後、四六年に同人誌「新詩派」を創刊する。これが終刊すると、「詩行動」、「今日」と立て続けに重要な詩誌を立ち上げ、五六年創刊の第一次「ユリイカ」の編集に携わった。その間、五一年に『廃墟』、五四年に『種子と破片』と二冊の詩集を刊行し、とくに後者で高い評価を得ている。
しかしこの第二詩集のあと、詩人は長い沈黙に入った。文学の歴史のなかでは、詩を捨てた詩人、長期にわたる活動停止を経て復活した詩人たちが、ある種の憧憬(しょうけい)をもって語られる。詩作を止めるのはたやすい。ただ、それが強い決断に満ちた停止であっても、再始動が訪れなければ忘れられた詩人の枠に組み込まれてしまう。
詩を封印した理由は「手短かに答えるのはむずかしい」。誘いはあったが、過去の自作を超えられるかどうか不安もあったという。再び詩の世界に戻ってきたのは八八年。本書には「新詩派」に寄せた文章から二〇一九年までの散文が収められているが、再起の経緯は幾度か語られている。
後押ししたのは、二人の詩人による、時を隔てた文学的リレーだった。一人は長田弘。六七年に刊行した評論集の冒頭に平林の第二詩集の詩句を引用しながら実名で呼びかけ、「なぜ詩を書かないのか」と敬愛に満ちた詰問の長詩を掲げた。二十年後、長田の本でその存在を知ったという詩人太田充広が平林をとつぜん訪ねて来て、自分のお金であなたの詩集を出したいと申し出た。半年の逡巡の後、未発表詩篇のみならず新作をまじえて構成されたのが、『水辺の光 一九八七年冬』である。以後の活躍はめざましい。
本書には、詩を書き始めるきっかけになった旧制中学の上級生の影響、「荒地」以前の田村隆一との関わり、最初の詩集刊行に力を貸してくれた中村真一郎や同人誌に詩篇を寄せてくれた鶴見俊輔、辻井喬や飯島耕一らへの追悼が並んでいる。甘い昔語りではない。ここにはまだ理不尽な戦争に飲み込まれた若い世代の血が脈打っていて、それが全体に不思議な緊張感をもたらしている。四六年、田村隆一が「新詩派」に寄稿した全集未収録の詩論が組み込まれているのも、それに寄与しているかもしれない。
戦場から戻って見出した詩の世界は、べつの意味での戦場だった。三十数年の沈黙を経て舞い戻ったのも、言葉をめぐる戦場だったのだ。奇蹟的な出会いがあったにせよ、つわものどもが残した、夢のあとではない言葉の轍(わだち)をたどり、見えないものを見据える視力を自覚していなければ、そのような勇気は出てこなかっただろう。
最後に、表題となった詩篇が置かれている。「行く手に待つ死者たちにおくる/いとおしい一度かぎりの言葉はあるか」と詩人は問いかける。書かないことが熟成させた詩の言葉。一度しかないその言葉は、死者ではなく、むしろ生まれて来る者たちを励まし、背中を押すために凝縮された、「人のいのちを繋ぐ」ためにある。そう読んでおきたい。
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