書評

『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』(講談社)

  • 2017/07/20
怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史  / 鹿島 茂
怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(608ページ)
  • 発売日:2010-10-13
  • ISBN-10:4062920174
  • ISBN-13:978-4062920179
内容紹介:
偉大な皇帝ナポレオンの凡庸な甥が、陰謀とクー・デタで権力を握った、間抜けな皇帝=ナポレオン三世。しかしこの紋切り型では、この摩訶不思議な人物の全貌は掴みきれない。近現代史の分水嶺は、ナポレオン三世と第二帝政にある。「博覧会的」なるものが、産業資本主義へと発展し、パリ改造が美しき都を生み出したのだ。謎多き皇帝の圧巻の大評伝。

好色な理想主義者が企てた近代化の行方

「裏返し史伝」というものがある。たいていは面白くない。「裏返し忠臣蔵」などが好例だが、伝説の英雄を引きずりおろし、快哉を叫ぶ嫉妬心が鼻につく。鹿島さんのこの新著も伝説を覆す評伝だが、これは通例とは意図も成果もまさに正反対、歴史の書き直しとして近来の成功作である。

なにしろ著者は、マルクスと文豪ユゴーという大物を敵にまわして、愚物、俗物と卑しめられた帝王の復権を企てる。W・H・C・スミスなどの先行研究をも踏まえて、この本(講談社刊)はそれをみごとに果たすと同時に、西洋の近代史全体について、教条的な左翼史観にとどめを刺す見直しを提示した。

ナポレオンⅢ世はⅠ世の弟を父とし、ジョセフィーヌの娘を母として、二重の縁で世紀の英雄の跡継ぎとして生まれた。出生にはとかくの噂もあったようだが、若きルイ・ナポレオンはこの血統を固く信じ、帝政復興の課題を自己の宿命として感じていた。出自が人間の自信を支え、使命感を駆りたてることのできた、最後の時代だったのだろう。

もっとも帝政復興といっても、彼の帝政のイメージは早くから独特のものだった。フランス革命のめざした民衆主権と自由の理念を守り、それを秩序のうちに実現するための権威が、彼の夢見る皇帝であった。皇帝と民衆が直接に手を結び、中間にある旧貴族やブルジョワの反動を排除するわけだから、これは典型的なポピュリズムの思想だといえる。

そのうえ彼は当時流行のサン・シモン主義の影響を受け、貧困を根絶し、労働者を救済するための産業振興を理想としていた。産業を興して富のパイを大きくし、そのうえで正しい徴税を徹底して、再配分をおこなう。そのすべてを政府主導で進めようというのだから、これは戦後日本の復興政策に似ている。またそのための帝政だという点では、現代のほとんどのアジア諸国に見られる、いわゆる開発独裁の先駆形態だといえるだろう。

滑稽な最初のクーデターの失敗ののちに、彼はこれらの思想を『貧困の根絶』という著書にまとめた。政策を支える世界観を組み立て、言語に表す能力を備えていたこの政治家は、それだけでも凡庸とはいえない。やがていくつかの幸運に恵まれて大統領に選ばれ、二度めのクーデターを経て皇位に就くと、彼は精力的に思想を現実のものにして行く。

旧貴族から没収した資金で鉄道網を広げ、信用銀行を興し、福祉政策を充実し、労働者住宅や共同浴場を整備したなかで、何といっても際立ったのは、オスマン知事を起用して企てたパリの都市改造であった。著者の筆はとりわけこのくだりで冴え、現代のパリがいかにこのとき創造されたかを活写するが、ここにはパリ論の名手の真骨頂が発揮されている。同時に陋巷(ろうこう)の破壊を嘆くボードレール、詩人の感傷の紹介ももちろん忘れられていない。

著者はパリ改造の経済学をも分析するが、とくに面白いのは事業が今でいう「地上げ」に頼り、新市街地を高く売ることで賄(まかな)われたという挿話である。皇帝は事業の進展に深く関わり、ときには建築や公園設計にみずから口を出した。彼はかねて公共事業が需要を刺激し、人と物資の流通を促し、新規雇用で労働者を助けるという、近代的な経済観を先取りしていた。当然、万博の経済効果にも敏感で、有名なパリ万博の主催者となった。

一方、この皇帝には二つの「欠陥」があった。一つは経済重視を裏返した平和主義で、軍備の充実にはつねにやぶさかであった。おかげで二度の戦争で苦戦を重ね、最後の普仏戦争ではみずから捕囚(ほしゅう)の辱(はずかし)めを受けた。もう一つは後世にまで名を馳せた好色であって、数知れぬ浮名を流したうえに、贅沢な宮廷社交にうつつをぬかした。ナポレオンⅢ世が歴史に汚名を残したのは、もっぱらこの二点が耳目をひいて、人口に膾炙(かいしゃ)したからであった。

さすがの鹿島さんも、この二点については独自の評価を下しかねているように見える。ただこの皇帝がときに観念的な理想王義に走り、自分の利益を裏切る性癖があった、という指摘は正鵠(せいこく)を射ている。とくに晩年、普仏戦争の直前に議会の民主化を進め、皇帝権力をわざと弱める政策をとった点などに、それは現れていた。「怪帝」と呼ぶべきゆえんだという、鹿島さんの感慨に同意したい。

あえて一点、好著にささやかな挑戦を試みるなら、怪帝の猟色と社交癖については、もう少し積極的な評価ができるのではないか。この趣味のせいで彼のブルジョワと貴族への反感は緩和され、ポピュリズムの暴発が防がれたと思われるからである。周知のように、ポピュリズムが暴力の支配へとなだれこむとき、歴史はいつも権力と民衆との中間層、社会のナンバー2の迫害を見せるのである。

それにしてもこの本の教訓は明快であり、時宜にもかなっている。近代化はつねに開発独裁なしには飛躍しないが、問題はそれをどう軟着陸させるかということなのである。

【この書評が収録されている書籍】
「厭書家」の本棚 / 山崎正和
「厭書家」の本棚
  • 著者:山崎正和
  • 出版社:潮出版社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(288ページ)
  • 発売日:2015-04-05
  • ISBN-10:4267020124
  • ISBN-13:978-4267020124
内容紹介:
「知の巨人」20年の集大成、圧巻の書評集。

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怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史  / 鹿島 茂
怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史
  • 著者:鹿島 茂
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(608ページ)
  • 発売日:2010-10-13
  • ISBN-10:4062920174
  • ISBN-13:978-4062920179
内容紹介:
偉大な皇帝ナポレオンの凡庸な甥が、陰謀とクー・デタで権力を握った、間抜けな皇帝=ナポレオン三世。しかしこの紋切り型では、この摩訶不思議な人物の全貌は掴みきれない。近現代史の分水嶺は、ナポレオン三世と第二帝政にある。「博覧会的」なるものが、産業資本主義へと発展し、パリ改造が美しき都を生み出したのだ。謎多き皇帝の圧巻の大評伝。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2005年1月30日

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