デジタル時代の人文学ーー新しいメディアのなかで
現在、我々は、デジタル媒体が新たな主要のメディアの座に就こうとする様子を目の当たりにしているところである。これまでに比べたデジタル媒体は、即時性、可搬性、伝達性等、様々な面で既存の媒体を圧倒しており、一方で、不足する部分や負の帰結をもたらし得る側面も明らかになりつつある。そのこと自体はすでに様々な論者達が予測してきたことに含まれており、おおむね、そのいずれかの予測に沿って推移してきたと言ってよいだろう。そして、我々に現在与えられているのは、そのうちの一部を実際に試し、検証し、そこからさらに新しい知見を実証的に導き出すことも可能な環境である。人文学のこれまでの営みが、紙媒体というメディアにどれくらい制約されてきたのか、その制約によって何を産み出し、何を失ってきたのか。新しいメディアは、新たに実現可能なことだけでなく、既存メディアをめぐる環境を検証する機会も提供してくれる。日本からは見えにくかったこれまでの動向
そのようにして人文学の基盤となってきた部分を問い直すこと、それはデジタル・ヒューマニティーズに期待される重要な課題の一つだろう。ではそれはどのようにして取り組まれているのだろうか。少し振り返ってみると、この30年ほど、欧米では人文学の成果をデジタル媒体で表現する手法に着々と取り組んできた。規格を作り、それにあわせたデータを作成し、ソフトウェアを開発する。そして、それらを担えるような人文学の人材を育成すべく、カリキュラムを作り、教材を開発し、それらはWebで自由に利用できるようにする。育成した人材のキャリアパスを確保すべく、国際学会を作り査読付きジャーナルを複数刊行し、インパクトファクターにも対応させる。毎年国際学術大会を開催し、研究の水準を高めるべく切磋琢磨しつつ国際的な紐帯を確かなものにし、次の戦略を立てるべく研究助成機関の担当者も交えて議論する。このようなデジタル・ヒューマニティーズ学会の活動以外にも、デジタル技術の応用が進む人文系の学会では学術大会でデジタル技術を扱うセッションを組まれ、専門に特化された議論が様々に展開される。こうした一連の活動は、政府をはじめとする研究助成金に支えられて着々と進められてきた。もちろん、欧米圏でもこうした動向に無関心であったり、むしろ後ろ向きであった人文学者も少なくなく、決してすべての人文学者が取り組んできたわけではなかった。それゆえ、日本からはやや見えにくい現象だったかもしれない。欧米圏の動向を手がかりに考えてみる
『欧米圏デジタル・ヒューマニティーズの基礎知識』が提示するのは、そのようにして推進されてきた欧米圏のデジタル・ヒューマニティーズの断片である。すでに欧米圏のこの種の動向は、個別の大学カリキュラムからEUレベルでの研究助成事業に至るまで、幅広く巨大なものとして広く浸透しており、さらに、変化の速度も大きく、これを一から体系的に解説することは、なかなか容易ではない。しかし、すでに大きな動きとなっているものを看過するわけにもいかない。幸いにして、本書に主に含まれているのは、これまで若手研究者を中心として国内外の多様な情報が提供されてきたメールマガジン『人文情報学月報』に集積されてきた、欧米圏に関する多様な過去記事群であり、この動向を垣間見るための様々な道筋を提供してくれる。冒頭の問い「人類の知的資源はどのように展開されていくのか」に戻ろう。人類の知的資源を、デジタル・ヒューマニティーズ、あるいはそもそも、これからのデジタル時代にその主要媒体を通じて展開していこうとするなら、あらゆる意味でできる限り自由に利用できる知的資源が適切にデジタル化されている必要がある。そして、それを適切に分析するためのツールや、それに基づく分析手法も必要となる。それにより、専門知を共有し深化させることが可能となるだけでなく、デジタル技術によって横断的に研究利用されることにもなる。その先には、横断的・総合的な知として再構築された成果があり、その成果もまた再利用されることで新たな成果を産み出していくことになる。本書の読者が、そこに自らの道筋を立て、参画していくための手がかりとして本書をお役に立てていただければ幸いである。
[書き手]永崎研宣(ながさき・きよのり)
1971年生まれ。一般財団法人人文情報学研究所主席研究員。筑波大学大学院博士課程哲学・思想研究科単位取得退学。博士(関西大学・文化交渉学)。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所COE研究員、山口県立大学国際文化学部助教授等を経て一般財団法人人文情報学研究所の設立に参画。これまで各地の大学研究機関で文化資料のデジタル化と応用についての研究支援活動を行ってきた。学会関連活動としては、情報処理学会論文誌編集委員、日本印度学仏教学会常務委員情報担当、日本デジタル・ヒューマニティーズ学会議長、TEI Consortium理事等を歴任。著書に『文科系のための情報発信リテラシー』(東京電機大学出版局、2004年)、『日本の文化をデジタル世界に伝える』(樹村房、2019年)など。