書評

『ド・ブランヴィリエ侯爵夫人』(薔薇十字社)

  • 2022/02/06
ド・ブランヴィリエ侯爵夫人 / 中田 耕治
ド・ブランヴィリエ侯爵夫人
  • 著者:中田 耕治
  • 出版社:薔薇十字社
  • 装丁:宇野 亜喜良(186ページ)
  • 発売日:1971-00-00

あくなき破壊の欲望が

ド・ブランヴィリエ侯爵夫人の名は、すでにE・T・A・ホフマンの『スキュデリー嬢』やカーの『火刑法廷』と結びついて、大方の記憶するところであろう。暗い美青年サント・クロアと邪しまな情事に耽ったうえ、父、実弟、夫、子供をつぎつぎに毒牙にかけ、豪奢な浪費の穴を埋めるべくその尨大な遺産を相続してはつぎの獲物を物色する、あくなき破壊の欲望に憑かれた稀代の毒殺魔。彼女の暗い姿は、ルイ太陽王の燦然たる王朝の影の部分たるモンテスパン公爵夫人の黒ミサやマダム・ヴォアザンの嬰児大量殺人と並んで、十七世紀パリの夜の共犯者たちの群のなかにもひときは悪の光彩を放っていちじるしい。

中田耕治氏の『ド・ヴランヴィリエ公爵夫人』は、精細な具体的知識と細心な構成によって書き上げられた、この悪の劇的な発露のドキュメントである。

だが、おそらく通常の意味での伝記文学——一人の平常もしくは異常な個性を環境や時代との相対によって浮び上らせ、そこに現実の人間をモニュメンタルに彫琢するという意味での伝記文学とはいささか趣きを異にしている。むろん、氏は惨劇の全体を絶対王制の成立過程における王権と領主層との利益対立という背景のなかに位置づけることを忘れてはいない。また毒殺への恐怖から派生する人間関係における猜疑や権謀術数の発見という、この時代の具体的な処世術から必然的に招来されたやや後の十八世紀心理小説の駆け引きに巧みな描法を、意識的にその源泉である太陽王朝の悪事に倒影してこれを解剖するという味な巧智もたくまれてはいる。

そしてその結果、恐怖を基盤ととした人間関係の綾が、一種あでやかにギャラントなアラベスクの模様を紡ぎ出し、全体が活人画のようにスタティックな表面性に凍結されるような配置がはらわれていることも忘れてはなるまい。しかし読み進むにしたがって、この表面化が巧緻をきわめた罠であることが判明してくる。この巧まれた表面性は、自然主義的な環境決定図因や歴史的条件を故意に紋章学的に処理することによって、眼も綾な表面の強調の只中に一挙に深部を獲得しようとする逆説にほかならないからだ。深部とは何か? 巨大な飢えに満たされた穴のようにつぎつぎに犠牲者たちを呑み込んでなお飢渇にあえぐ候爵夫人が、ついに歴史の限定を立ち超えて露わすにいたった、その蒼古たる大母神の冥府的な顔である。太陽王の絶対支配の只中に突如として抬頭した地下的なものの復讐、たとえば陰母神カーリに代表される母的なものの冥府的否定性が、活人画の背後を流れるモリタートのように徐々に正体をあらわしてくる。ここで私たちは、十七世紀パリから一挙に暗い太古のアルケティプスの神話的世界に遡行しているのである。けだし作者はそのために、ボルジア家の毒薬の秘密探求という錬金術的な絶対の探求のエピソードをアリアードネの糸のように絡ませて、周到を期したのであろう。

とりわけ第三幕で「ドラマの破局」の冒頭、サント・クロア、ド・ブランヴィリエ侯爵、ブリアンクールの三人が侯爵夫人とともに城館の庭園を散策する場面は美しい。夫人と奔放な夜をともにしてからつぎつぎに清算される運命にある三人と毒殺魔の一行は、迫りくる全的破滅を前にしてその奇怪な悪にもかかわらず天使たちのような無垢性に装われてかぎりなく哀しい。やがてルイ王朝の巨大な集権制の太陽の暗黒が彼らの頭上を覆い、中世最後の星たちは完全に没落するだろう。

伝記文学が局限された歴史的時代における人間の描写にとどまらず、アルケティプスの深部世界に到達する手掛りとして構想された試みは、先に澁澤龍彦氏の『世界悪女物語』がある。中田氏の本著は、その澁澤氏への共感によって成立した数少ないこの種の試みの収獲に数えられる。ちなみにこの作品は「小説」と銘打ってはいない。小説よりはるかに面白いからであろう。
ド・ブランヴィリエ侯爵夫人 / 中田 耕治
ド・ブランヴィリエ侯爵夫人
  • 著者:中田 耕治
  • 出版社:薔薇十字社
  • 装丁:宇野 亜喜良(186ページ)
  • 発売日:1971-00-00

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初出メディア

日本読書新聞(終刊)

日本読書新聞(終刊) 1971年5月31日

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