硬質な詩語に打ち抜かれる
左川ちかによる詩、散文、書簡、翻訳が全て収録され、年譜、解題、解説が付された初のコンプリート版である。これだけの仕事と校訂を編者ひとりで行っており、驚異的な労作だ。左川ちか(本名・川崎愛)は1911年、北海道の余市町に生まれ、1936年、わずか24歳で没した夭折(ようせつ)の詩人であり翻訳家だ。7年弱の間に、約90篇の詩、20篇余りの詩文の翻訳、10篇余りの散文を残した。米国の文芸誌『ザ・ニューヨーカー』は「二〇世紀初頭の日本における最も革新的な前衛詩人」と紹介している(2015年8月18日)。
海外での評価が高いが、島田龍の解説や「左川ちか研究史論」を繙(ひもと)くに、日本でも没後すぐに『椎の木』『海盤車』で追悼特集が組まれ、萩原朔太郎、堀口大學、西脇順三郎、田中克己らが寄稿。戦後やや言及が減るものの、富岡多恵子の「詩人の誕生 左川ちか」などのまとまった論考があり、近年では高橋悠治ら現代音楽家をインスパイアし、川上未映子編集「早稲田文学女性号」でも取り上げられた。
その硬質な詩語に打ち抜かれる。ちかは第一に翻訳者だった。18歳で訳業を世に著し(私は「十代の翻訳家はまずいない」という前言を撤回したい)、その傍らには兄・川崎昇の親友だった伊藤整の存在があった。
1920年代といえば、モダニズム文学の佳境にして、芸術家がリーヴゴーシュに会したパリ時代でもある。筆名の左川は「左岸」に由来するというが、ちかは先鋭なアンテナをもつ伊藤ら文学同人を通して、パリの「トランジション」やNYの「ヴァニティフェア」などの雑誌や洋書にアクセスしたようだ。当時の第一期「ヴァニティフェア」といえば「ザ・ニューヨーカー」に比肩するハイカルチャー誌であり、ハクスリー、T・S・エリオット、G・スタイン、ジューナ・バーンズら最先端の書き手を集めていた。はたち前後のちかはそうした中からジョイス、ウルフ、アンダスン、クロスビー、ミナ・ロイらの作品を慧眼(けいがん)をもって選りぬき、訳しこなしてしまう。
パリ左岸の知性を映した主知的なモダニズム詩人となっていくちかを、伊藤整は当初、翻訳のできるブレーンあるいは「ミューズ」として利用していた節がある。しかし編者解説によれば、伊藤は左川ちかを詩人として育てると決心してから、自分はモダニズム詩作から引退した。
こうした伊藤とのピュグマリオニズム的な関係への「告発と超克」の詩を、ちかは書いているという。それは、「私は浪の音を守唄にして眠る」「私はいつか異国の若い母親に拾ひ上げられるだらう」という伊藤の「海の捨児」に相対する「海の捨子」だ。「揺籃(ようらん)はごんごんと音を立ててゐる」と始まり「私は胸の羽毛を搔きむしり」「私は海に捨てられた」と終わるこの詩には、「海の捨児」にある「母胎回帰の詩情」は一切ないと指摘される。
当時のモダニズム詩に若い女性が多く参画したのは、作者個人の主情に重きをおかず、自己の表現ができたからだ、という編者の分析がある。そうなると、ウルフとの影響関係は一層重要になるだろう。例えば、短編「憑かれた家」のちかによる訳文には、ウルフ独特のヴィジョン(幻)とヴィジョネール(幻視者)の反転と融解が紛いようもなく写しとられている。「目に見えない婦人が彼女の幻のやうな外套を拡げてゐるのを私たちは見る」という訳文。原文はWe see no lady spread her ghostly cloak.だから、そのまま訳せば、「~を見る」ではなく「~が見えない」となる。しかし私たちは「幻のような外套を広げた婦人は見えない」という文を読むとき、すでに亡霊めいた女を眼裏に映じているはずである。ウルフは「見えない」と書きながら見せているのだ。この項で、島田は誤訳ならぬ「異訳」という語も使っている。
この短い短篇には複雑な人称の変移がある。主語にyouでもIでもなくoneが幾度か使われ、ちかはこれを「人(は・の)」と訳している。ウルフがoneとして表現した人間と幽霊のどちらでもない「存在の揺らぎ」を最大限活かそうとした訳語だと、島田は考える。oneには、特定の個人と不特定の「ひと」との境をあやふやにする働きもあるだろう。
ちかの緑の詩が甦ってきた。猛々しい緑葉が迫る「暗い夏」、「緑の焰」、「緑」などは、ウルフの散文詩風小説「青と緑」の色彩を想起させずにはいないが、「緑」は「私は人に捨てられた」と終わっているのだ。捨てたのは何某(なにがし)では?と、書き手の人生に答えを求める解釈もあるという。しかし彼女が対峙していたのはそんな私情に収斂する孤独ではなかった。この「人」はちかにとって「憑かれた家」のoneに近いものではなかったろうか。
最初期の詩「青い馬」は「馬は山をかけ下りて発狂した」と始まり「私は二階から飛び降りずに済んだのだ。海が天にあがる」と終わる。私にはここに、精神を危うくしながら自死を踏み留まる、ウルフの主人公クラリッサ・ダロウェイの声の木霊が聞こえた。