モネが創った庭
イングリッシュ・ガーデンが大はやりらしい。この間まで盆栽や山野草がずらりと並んでいたデパートの屋上には、イギリスからの園芸用品を扱う大きなスペースができている。書店を覗くと、いくつもの雑誌が特集を組んでいるし、平台(ひらだい)には和洋とりまぜてそれらしい本が揃えてある。庭好きなのに庭を持たないせいで、気づくのが遅すぎたのだろう(ALLREVIEWS事務局注:本書評執筆年は1996年頃)。
イギリス人の庭作りへの執心は定評がある。馬糞を積んで作った堆肥のえもいわれぬ香りをかいでからでないと閣議がはじめられない、なんてジョークを耳にしたこともある。
では、と遅まきながら手近の一冊を開いてみるに、ゴルフ場の広さがあるんじゃないかと思うほどの大庭園のカラー写真がこれでもかと続く。それを受ける頁には、なんと、「あなたのコンテナ・ガーデンにとりいれてみませんか」ときた。
そっちがイギリスならこっちにはフランスがある。この一年ほど折にふれて開いている本、『モネが創った庭』。
モネとはいうまでもなく、印象派の画家、「蓮池」のモネ。蓮池の小さなタブローなら倉敷にもブリヂストンにもあるが、圧巻はやはりパリのオランジュリー美術館の楕円形の壁にめぐらされた大画面だろう。そこで過ごした一時間がどんなに幻惑的な体験だったか、足を運んだ人で言わない人はいない。
パリから汽車で一時間ほどのジヴェルニーにモネが定住したのが四十三歳。以後営々と庭作りに励んで、一ヘクタールの花の庭、同じほどの広さの蓮池の庭を作りあげた。絵を描くのは庭につぎこむ資金作りのため、と公言してはばからなかった。チューリップの花壇ひとつ作るにも一万株、二万株と植えるのだから大変な費(つい)えだったろう。しかも庭は年々更新を要求する。老いてからは白内障に悩まされ、手術でなんとかしのいで蓮池の大画面にとりかかり、完成と同時のように一九二六年、八十六歳で亡くなった。
死後もモネの絵の声価は高まるばかりだったが、ジヴェルニーの庭は荒れるにまかされた。没後五十年ほどしてやっと政府が動いて修復が始められ、いまでは一般にも公開されている。
修復は徹底したものだった。遺されていた写真、手紙、苗の注文書などなどが調べられ、巨費が投じられた。モネは日本の木や草花を好んだ。
アメリカ生まれの女性、エリザベス・マレーはヨーロッパ旅行の途中、ジヴェルニーを訪れ、庭の豊穣さにうたれた。この庭を知りつくしたい、という気持がおさえられず、管理責任者に直訴した。さいわい造園の訓練を受けていたので庭師として働くことがかない、働きながら四季折々、朝に夕に移り変わる庭の写真を撮りつづけた。『モネが創った庭』という写真集・園芸書・美術書・エッセー・紀行のいずれでもあるような、欲ばりでふしぎな本はそんなふうにしてできあがった。
これはとびきり開かれた本だ。モネの仕事が開かれたものだったからだろう。
僕はこの本をあけるたびに、僕自身の仕事を開いたものにするにはどうしたらいいか、考えあぐむ。モネたち印象派の画家がしたように、言葉の世界を日にさらせたらどんなにいいか。ジヴェルニーに行ってモネに教えを請うか、とりあえず。
モネは死の床で、名宰相といわれた親友のクレマンソーに言った。
「来年の春も庭を見にきてほしい。日本に注文してあったユリがちょうど届いたところなんだ。僕はこのユリが咲くのを見ないでしまうだろうが、君はきっと見てくれたまえよ」