選評

『紙つぶて―自作自注最終版』(文藝春秋)

  • 2017/07/23
紙つぶて―自作自注最終版 / 谷沢 永一
紙つぶて―自作自注最終版
  • 著者:谷沢 永一
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(990ページ)
  • ISBN-10:4163677607
  • ISBN-13:978-4163677606
内容紹介:
稀代の絶品書評コラム全455篇すべてに書き下ろし自注を加えた最終版。愛書家の真情あふれる情熱と執念の書、堂々完成。

第4回(2006年)「毎日書評賞」選評 半世紀の読書界の水先案内人への敬意

谷沢永一さんは日本近代文学の研究者であり、書誌学の第一人者であり、なによりも稀代の読書人、愛書家として知られている。

自宅に汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)さながらの蔵書を擁し、古書市をめぐっては、書肆(しょし)の主人が教えを請う博識の持ち主である。その谷沢さんが一九七八年、それまでの書評、読書所感を四五五編からなる論集として出版したのが、『完本・紙つぶて』であった。該博な知識、広い目配り、旺盛な批判精神が注目を集めて、当時、高い世評を得て賞も受けた好著であった。

今回の『紙つぶて』(文藝春秋)は、その旧著を著者みずからが読み返して、もとの一編ごとに同量の新稿を書き加えた大著である。新しい原稿はその後の四半世紀に出版された本、あるいは著者が読み返した本の読書感からなっているから、全巻を通じて読者はほとんど戦後出版史の全体を展望することになる。本文九四三ぺージ、巻末索引によれば言及された著者は一九〇〇人に及び、触れられた著作の数は四二〇〇冊を超えている。一覧、谷沢さんの猛烈な読書力、書物への愛情に圧倒される思いがする。

一方、批評家としての谷沢さんは辛辣、苛烈をもって有名である。逆鱗(げきりん)に触れれば森鴎外をはじめ、文壇、学界の権威はもちろん、当代の流行児であっても秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)の刃を見舞われる。世上には辟易(へきえき)の声もないではないが、それもこの本を読めば、書物への谷沢さんのあり余る愛の現れであることがわかる。書物はかくあるべしという高すぎる期待が、ついいささかの瑕瑾(かきん)をも許せないのである。

じっさい、谷沢さんは書物の誕生に貢献したさまざまな人に暖かい。たとえば鴎外の忘れられた作品を全集に収めるにあたって、それを図書館の片隅で最初に発見した無名の研究者に目を向ける。そしてそれを「市井の一書誌学者」と呼んで無視した、傲慢な東大教授を叱るのである。また谷沢さんの著者の評価は柔軟で、固定観念にとらわれない。新旧の『紙つぶて』を読み比べれば、かつて批評された著者がその後も見守られ続けて、褒貶(ほうへん)がときに逆転しているのがわかるだろう。

内藤湖南からミハイル・バフチンまで、関心は古今東西に及び、それぞれの価値判断は果断で、しばしば先駆的である。国語辞典、方言辞典、人名事典、風俗事典など、辞書類の紹介と批評も行き届いている。だが谷沢書評の最大の特色は、それが書かれた内容だけでなく、装丁、造本、価格、全集の編集、月報、内容見本、さらには図書館の司書の活動にまで広がっていることだろう。読者は本の製作の全過程に案内され、日本の活字文化の全貌に目を導かれることになるのである。

裏返せば、『紙つぶて』は一冊の本に一編の批評をあてるという、狭義の書評にはあてはまりにくい。その点で書評賞の対象として微かな疑念がなくもなかったが、選考委員会はむしろ書評の概念を拡張することで意見の一致を見た。半世紀にわたる出版文化の生き証人、読書界の水先案内人の生涯の「なかじきり」に敬意を表したかったのである。

ついでながらこの本の装丁は、無表情なクリーム色のカヴァーの下に、美智子夫人の名筆に飾られた優雅な表紙が隠された仕掛けになっている。本好きの人の造る本にふさわしい、瀟洒で心憎い趣向である。

【この選評が収録されている書籍】
「厭書家」の本棚 / 山崎正和
「厭書家」の本棚
  • 著者:山崎正和
  • 出版社:潮出版社
  • 装丁:単行本(ソフトカバー)(288ページ)
  • 発売日:2015-04-05
  • ISBN-10:4267020124
  • ISBN-13:978-4267020124
内容紹介:
「知の巨人」20年の集大成、圧巻の書評集。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

紙つぶて―自作自注最終版 / 谷沢 永一
紙つぶて―自作自注最終版
  • 著者:谷沢 永一
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(990ページ)
  • ISBN-10:4163677607
  • ISBN-13:978-4163677606
内容紹介:
稀代の絶品書評コラム全455篇すべてに書き下ろし自注を加えた最終版。愛書家の真情あふれる情熱と執念の書、堂々完成。

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