古今東西、傍らで食べる寄生者
コロナ禍が終息したのかどうなのか曖昧なまま、繁華街には人が戻り、飲食店のアクリル板も取り払われた。宴会や会食が苦手な人にとっては、つらい日々が帰ってくる。断る口実を探さなくては。近ごろ「共生」という言葉をよく目にする。よいもの、実現されるべきもの、という文脈で使われることが多い。だが、他人と共に生きるのは、たやすいことではない。本書は「食客」をキーワードに、共生について考える評論。フーリエやディオゲネス、九鬼周造、アーレントなど、古今東西さまざまな人のテクストを検討する。
出発点はフランスの批評家、ロラン・バルトが1977年に行った講義に出てくる言葉。バルトにとって「共生」の耐えがたいイメージは、<レストランで隣の席に座っている感じの悪い連中とともに、永遠に閉じ込められること>なのだという。
想像するだけでぞっとする。ぼくが飛行機の旅を嫌うのも同じような理由からだ。人はひとりでは生きていけないが、共に生きる者を選ぶことができないのもつらい。偶然、隣に座る者。それは友でもないし敵でもない。食客とはこの曖昧な他者だ。招かれて、あるいは招かれてもいないのに、誰かの傍らで食べる者である。
第4章に2世紀ごろアテナイで活躍したルキアノスの、『食客』という諷刺作品が出てくる。「食客術」なる珍妙な技術についての対話篇で、それ自体が哲学や弁論術のパロディーだ。食客は誰のところに行けばうまく食にありつけるかを見分ける能力があり、食事の席では他者から称賛されるような言葉を繰り出す。哲学よりも弁論術よりも、食客術こそが素晴らしい技術であるというのである。<食客術とは「飲むこと、食べることの、そしてそれを獲得するために弄(ろう)すべき言葉の技術」であり、その目的は「悦楽」にある>とも。
本書のなかで最も強烈なのは、石原吉郎についての章だ。約8年に及ぶシベリア抑留を経験したこの詩人は、詩やエッセイの中で極限状態での共生を語ってきた。収容所では過酷な労働を強制されるだけではない。絶対的に食糧が不足する中で、ひとつの飯盒(はんごう)に入った食糧をふたりで食う。公平に分け合って、などとのんきな話ではない。飯盒をはさんで、殺し合いにならないギリギリの緊張が続く。食事の分配が終わったあとは、無我に近い恍惚(こうこつ)感がやってきて、相手に対して完全に無関心になるのだという。共生の果ての究極の孤食。これが1日に3度、毎日繰り返される。想像するだけで胃に穴が開きそうだ。
突然やってきて傍らで食う者。食客は寄生者でもある。最終章ではポン・ジュノ監督の映画「パラサイト」が取り上げられる。ソウルの半地下に住む貧しい一家が、大金持ちの一家に巧みに寄生する喜劇。しかも大金持ちの地下室には別の寄生者がいた、というオチである。
大きな賞を受け、大ヒットしたこの映画は、韓国の厳しい格差社会を描いているといわれる。だが、よく考えると、誰が誰に寄生しているのかわからなくなる。大金持ちが得た富が、誰かから(あるいは薄く広く世間から)搾取した結果なのであれば、寄生しているのは大金持ちの方ではないか。
人は誰でもみな食客であり、寄生者なのである。